2024年04月12日 07:15
観音の里だより「井平城の戦いその5 家康、岡崎城からの反撃」
遠州・三河で徳川家康率いる徳川軍と武田信玄率いる武田軍が戦った「元亀の乱」は、元亀3年(1572年)7月に三河に攻め込んでいた武田軍の突然の退却により終わります。その後、この地を支配しましたのは、武田信玄配下の信濃先方衆として働いた伊那郡飯田城城主、小笠原信...
「いだいら観音の里」の日常、観光案内をお伝えします。
2024年04月12日 07:15
遠州・三河で徳川家康率いる徳川軍と武田信玄率いる武田軍が戦った「元亀の乱」は、元亀3年(1572年)7月に三河に攻め込んでいた武田軍の突然の退却により終わります。その後、この地を支配しましたのは、武田信玄配下の信濃先方衆として働いた伊那郡飯田城城主、小笠原信...
2024年04月11日 07:30
最近の目まぐるしい時代の変化に心の平穏を保つのが、非常に難しくなっており、社会の閉塞感すら感じられます。新しい時代へ進むためにも「温故知新」、故(ふる)い文化に接して、これからの活き方の道しるべにする必要があるのです。何故なら、どんな時代が来ようとも私...
2024年04月08日 07:21
春の陽気に誘われて、いだいら観音の里、勝沢の地まで出かけてみました。川岸には、春になると競い合うように無数の花が、咲いております。どの花も美しいのですが、私には、アザミの名前しか分かりません。蝶々が一匹やってきました、花から花へと停まっております。風は...
2024年03月26日 07:10
武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍が戦ったとされる「元亀の乱」、元亀元年(西暦1570)~元亀3年(西暦1572年)の時、「三方ヶ原の戦い」が、在ったとされますがその戦いの様子を示す資料は全く残っておりません。大きな戦いであったのにかかわらず、戦いに関する資料...
2024年03月21日 07:31
井平城から約4㎞、西にあります山吉田(やまのよしだ) 鈴木一族の菩提寺、満光寺には、徳川家康に関わる「ニワトリ伝説」が、以下の様な内容で残っております。 写真は井平城跡からひと山越えた所にある満光寺の方角を見渡す 「元亀の頃(1...
2024年03月14日 07:35
徳川家康率いる徳川軍と武田信玄率いる武田軍が遠州・三河で戦ったとされる戦いは「元亀の乱」と呼ばれておりました。元亀元年(西暦1570年)~元亀三年(西暦1572年)の戦いです。後に「三方ヶ原の戦い」とされ、教科書にも取り上げられております。伊平には二つの古文書...
2024年03月04日 07:32
最初に鉄砲を効果的に戦いに活用した人物は誰か、と考えるとき、西暦1575年6月29日「長篠の戦い」で武田騎馬隊を阻止する為、土塁に馬防柵を立て、鉄砲による玉込めによるロスタイムをなくす「三段撃ち戦法」を考え行ったとされる織田信長を思い出します。しかし、西暦157...
2021年05月05日 07:00
いだいら観音の里に男の子が、授かりました。鯉のぼりが、風に乗り天高く舞っております。誕生した男の子は、10月に、伊平林森神社で初氏子の名乗りを上げました。 その子は、いだいら観音の里の子供として育ち、当時の伊平小学校の1年生になりました。私の後輩になり...
2018年11月07日 07:32
人の心は、自然に触れて癒されます。そして文化に触れて正気を取り戻します。いだいら観音の里では、寒さの厳しい初春の二月に、里中で五体の観音様をお祀りしております。下のURLをダブルクリックしてください!~五体の観音菩薩~https://www.youtube.com/watch?v=7DhXd...
2018年08月07日 07:11
いだいら観音の里にあります仏坂の峠を越えた北側、四方浄(旧 仲田の里)という処に行基堂があり、行基発祥の縁起書が掛けられております。以下縁起書の重要な処を抜粋して書きますと「・・・行基は、西暦668年に仲田の里に聖徳太子の生まれ変わりとして出生し、その啼...
2018年04月20日 07:00
日本では岩手県、山形県以南の本州、四国、九州の川に分布して、危険を察知すると直ぐに砂に潜りこんで存在が分からなくなってしまう魚、和名が、カツマカと言う魚を、地域によって異なりますが「スナホリ」・「スナムグリ」・「スナモグリ」・「カワギス」・「スナフキ」...
2018年03月03日 21:24
武田軍の将、山県昌景は、川名村から井平城へと東から西方向に夜襲を掛けてまいりました。その時、徳川家康は、何所に居たのでしょうか?井平城から約7㎞、更に東から西方向にあります山吉田(やまのよしだ) 鈴木一族の菩提寺、満光寺には、徳川家康に関わる「ニワトリ...
2018年02月17日 09:11
最初に鉄砲を効果的に戦いに活用した人物は誰か、と考えるとき、西暦1575年6月29日「長篠の戦い」で武田騎馬隊を阻止する為、土塁に馬防柵を立て、鉄砲による玉込めによるロスタイムをなくす「三段撃ち戦法」を考え行ったとされる織田信長を思い出します。しかし、西暦157...
2018年01月16日 22:01
日本書紀によると大化の改新(たいかのかいしん)とは、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革であり、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自害させ、蘇我...
2017年12月08日 17:57
道徳とは、私たちの善悪を定める心の拠り所です。私が今まで教えられて来たことは、「我思う、故に我在り」なのです。しかし幾ら考えても、私の心は、猿猴(えんこう)の如く惑い続けなければならないのです。そろそろ初老に差し掛かり、思う事は、「人が一生の内に考える...
2017年09月27日 12:51
日本人を呉国の民の末裔とする根拠は3つあります。1. 遠州渋川「ひおんどり」は、詞(ことば)を掛け合い、鬼が火を持って踊りますが、この詞(ことば)を纏めて「詞(ことば)章集」とした一冊の本があります。その「詞(ことば)章集」糸庫裡(いとくり)の章 ※ 糸庫...
2017年09月21日 18:31
日本書紀によると大化の改新(たいかのかいしん)とは、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革であり、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自害させ、蘇我...
2017年09月10日 10:28
行基と言う集団は「道號(どうごう)」導く者と「隋號(ずいごう)」従う者から成ります。開墾をする隋號(ずいごう)の人は、隋墾坊(ずいこんぼう)と呼ばれておりました。伊平より北域にある浜松市北区引佐町四方淨霧山、浜松市北区引佐町田沢や浜松市北区引佐町川名な...
2017年09月06日 13:29
いだいら 観音の里の北側に在る山を小屋山と言います。その小屋とは、仏教により、人々が伸び伸びと、安穏(あんのん)に過ごせる場所と言う意味です。そこには、恐怖も不安も無く、安らかさに満ちます。下のURLをダブルクリックしてください!https://www.youtube.com/w...
2017年05月18日 13:50
無漏路(むろじ)とは、煩悩(ぼんのう)を一つ一つ、取り除いて、空(くう)の道、新たなる心の旅立ちに至る、道を言います。いだいら観音の里では、松山観音堂の馬頭観音菩薩のお参りに始まり、巡って長興寺の聖観音菩薩のお参りで終わります。「無漏路」 下のURLをダ...