観音の里だより「井平城の戦いその5 家康、岡崎城からの反撃」

遠州・三河で徳川家康率いる徳川軍と武田信玄率いる武田軍が戦った「元亀の乱」は、元亀3年(1572年)7月に三河に攻め込んでいた武田軍の突然の退却により終わります。その後、この地を支配しましたのは、武田信玄配下の信濃先方衆として働いた伊那郡飯田城城主、小笠原信嶺(おがさわら のぶみね)です。元亀3年(1572年)11月15日には徳川方の国衆に対して書状を送っており、小笠原信嶺は三河国・遠江国・美濃国に対する調略を任されていたことが指摘されております。また天正元年(1573年)7月6日には三河長篠城(愛知県新城市)への在番を命じられ、遠江井伊谷(静岡県浜松市)を与えられております。信嶺は井伊谷に一族の小笠原忠長や家臣の常葉常陸守らを配置したと考えられております。同年7月には三河岡崎に退去していた徳川家康が、再び東に侵攻し長篠城を包囲します。勝頼は援軍として信嶺らを派遣しましたが、同年9月には長篠城を放棄し退去しました。そんな状況の中、天正元年/元亀4年(1573年)11月23日に武田の将、山県三郎兵衛昌景から浜松市引佐町渋川の人、伊藤忠衛門へ「定(さだめ)」と称する大変珍しい感状文書が贈られております。
       以下の資料は石野修著「遠州渋川の歴史」からの抜粋
観音の里だより「井平城の戦いその5 家康、岡崎城からの反撃」


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それには、既に死んでしまった武田信玄の龍印が押されております。
感状文書のわざとらしい信玄の龍印や簡単に領土を奪還できたことで「信玄は死んでいる」と思った家康は、天正2年(1574年)天竜川からすぐ東にある武田方の天野氏の犬居城を攻めようとしましたが、大雨に見舞われて陣を三倉まで引かせました。それを見た天野氏は、追いかけて奇襲を仕掛けました。敗走した家康は三倉の庄屋矢部久右衛門にかくまわれ、味方の天方城(遠州森町)に逃げ込んだとされます。予想にしなかった敗北に「信玄は生きているかもしれない」と家康は思ったでしょう。
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武田方の犬居城を攻めあぐねて命からがら敗走した際、森町三倉の村人に助けられたお礼に天下統一後に贈ったとされる、地元に伝えられる天下泰平の願いをこめた家康直筆の短冊が許禰(きね)神社に保存されています。
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その短冊は横約六センチ、縦約三十センチの和紙に、墨で「天下和平不生禍亂」と書かれております。
その後、天正3年5月21日(西暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000と武田勝頼軍15,000との間で勃発した戦いは、武田軍の敗北で終わります。甚大な被害を受けた甲斐 武田一族は、この敗北が原因で滅亡することに成ります。



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