観音の里だより「日本人の心の故郷は、行基の都」

歴史の考え方も時代によって変わる様です。数十年前、「引佐町史」に伝説ばかりで、行基は存在しなかったと決められてしまいました。
しかし最近では、伝説の中にこそ真実の歴史が存在すると言われ始めました。実は、「かぐや姫」の物語や「紀州道成寺 安珍・清姫」の物語も歴史の真実を語っております。

引佐町四方浄に今も残っております風土記を、郷土の故小出義郎氏が年寄りや子供に分かりやすく読めるようにした書物があります。「行基」という書物ですが、その中の行基の出生について内容から謎を読み解きます。

「 行基の生まれた場所は、小出モータース(引佐町四方浄)の裏の般若院境内である。
観音の里だより「日本人の心の故郷は、行基の都」


普通の出産と違い袋子・・・つまり、胞衣(卵のような)のままで生まれたので母は、気味悪く、向かいの峰の松の枝に袋子を掛けて帰ったが、気になり戻ってみれば胞衣が破れて大きな声で泣いていた。母は、喜んで抱きかかえ家に帰ったが・・・聞いたことのない泣き声であった。母は、また気味悪くなり、池のほとりにある石の上に置いたところ、丁度そこを通りがかった三河の新福寺の上人(僧侶)が奇妙な声で泣く赤子を抱きかかえて、どうしてこんなところに赤子を置いたのか尋ねた。母は、経緯を話した。話を聞いた上人は、この児を出家(坊さん)させると偉い坊さんになると言って衣に包み帰っていった。思った通り大変頭の良い子であり十五歳で出家した。そして十八歳の時、四方浄に帰った。
 行基は、上人に・・・私は貰い子であると聞くが、本当の父母はどこにいるのかと尋ねたところ、遠江(とうとうみ)の中田の郷で、母親だけの家で生まれたことを知った。行基は、上人に育てられた御恩に対して感謝しながらも、生きているうち、せめて一度母に逢いたくて、はるばる母を尋ね四方浄に辿り着き、十八歳にして母に逢う事が出来た。母は我が子の成長に涙を流した。母は、年をとり、側にいてくれる子もなく老後を心配し、涙を流した。
行基は、私が母と暮らせば不自由な生活をさせることはないと・・・けれども私を育ててくれた上人に対しての恩もあり、上人のもとに帰らねばならず、どうか許してください。と言い、行基は母の姿をした藁人形(わらにんぎょう)を作り近所のあちこちに配ると、人形に対して礼銭を持ってきたと言う。
行基は、長者の家で十ヶ月世話になり、ここ(四方浄)は、神や仏を祀ることがない(仏法不到の地)土地柄であり、何とか神仏を祀る土地にしたいものだと思い、行基は自ら仏像を刻み四方に安置した。東は、川名村に薬師如来を、
観音の里だより「日本人の心の故郷は、行基の都」


西方、的場に阿弥陀如来。
観音の里だより「日本人の心の故郷は、行基の都」


南の伊平には、観世音菩薩、
観音の里だより「日本人の心の故郷は、行基の都」


北方、別所には釈迦如来を建立し中田里を改め四方浄村とした。
行基は、母に尋ねた。私の先祖はどのような人か?母は、よく聞いてくれた、お前の先祖は百済国王(くだらこくおう)の末裔で、父は高志才智といって泉州大鳥郡蜂田村であると話してくれた。老いた母を案じ背負って本国に帰り母の余生を看取った。」

以上ですが、ここで注目すべきは二つあります。
①行基は、普通の出産と違い胞衣(卵のような)のままで生まれ、母だけの家に生まれたとされる内容です。行基こと「仲田山般若院」は、引佐町四方浄村から大阪府和泉市に移り住んだ際、こんな歌を詠んでおります。奈良時代に行基菩薩が建立したといわれる奈良市油阪町の多聞山にあります西方寺に残る「ほろほろと 山鳥の声きけば 父かと思う 母かと思う」と歌です。あたりまえのことですが、実際には、父母は、存在して居りました。では、何故、風土記には、胞衣(卵のような)のままで生まれ、母だけの家に生まれたとされる内容なのでしょうか?普通の人とは違う稀有な人物であるということを表しているのでしょうか?それも違います。「行基」いう名は人名では無いことを表しております。「行基」とは、利他行を行う仏教の集団ということを表し、中田の里に創られたことを意味します。そして「行基」として仏門に入れば、俗名は、亡くなり、父親が仏門に入れば、俗世には、居ない存在になります。

②行基の私の先祖はどのような人か?との問いに母が答えた内容です。お前の先祖は百済国王(くだらこくおう)の末裔(まつえい)で、父は高志才智といって泉州大鳥郡蜂田村であると話してくれた。と言う所です。高志才智とは、志(こころざし)高く才智(さいち)溢(あふれる)人と言う意味です。そして泉州大鳥郡蜂田村は、現在の大阪府和泉市です。和泉市は、和国が日本に発祥のした場所です。私は、四方浄に伝わる縁起書に書かれている内容から「大和国王 山背大兄王が、行基という集団を創り仏教を布教した」という仮説を立てて古代の時代まで遡り検証してまいりました。その結果「大和国王 山背大兄王は、百済国王の末裔」で間違い無いと思っております。
今も古代も台所事情は同じです。「行基」という大きな集団を抱え、多くの寺院や仏像を建立する財力や技術力は、国王級であり並みの者では無いと考えます。法華経の教えでは、国王という地位を捨て、妻子も捨て、仏教により人々を仏の世界に導き、蓄財を施すことにより人々が幸せに暮らすことのできる浄土の世界が実現する。とされます。
山背大兄王は、その「法華経」の教えを実行したのです。そして自身は、未来、過去、そして現世において人々の心を清浄ならしめ、苦業から救い、その神通力により人々の寿命を増益する仏となりました。

私にとりましてもショッキングな検証結果になりましたが、私たちの心、日本人の奥深く存在いたします心は、仏教による「行基」が齎(もたら)してくれた「空しくいきて満ち足りる」という心であると思っています。清らかなまでに潔癖な精神だと思っております。そして古代、引佐町伊平から北域にあったとされる「行基の都」は、日本人の心の故郷だと思います。郷土(引佐町伊平)の歴史家 石野 修氏は、その著書「遠州渋川の歴史」の中で、
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引佐町四方浄には、熊野三社があり、
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行基橋、
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行基産湯池、
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伝説をともない浄土の世界を希求する四方仏の拠点があった。と述べられております。



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