観音の里だより「井平城の戦いその3 井平城の戦いの時、家康は満光寺に・・そして岡崎城へ」

井平城から約4㎞、西にあります山吉田(やまのよしだ) 鈴木一族の菩提寺、満光寺には、徳川家康に関わる「ニワトリ伝説」が、以下の様な内容で残っております。
        写真は井平城跡からひと山越えた所にある満光寺の方角を見渡す
観音の里だより「井平城の戦いその3 井平城の戦いの時、家康は満光寺に・・そして岡崎城へ」



 「元亀の頃(1570~1572)徳川家康が甲斐の国の武田信玄の軍勢に追われて、山吉田まで退いてきた時のことです。その時、ちょうど夜になってしまったので、家康は付近の満光寺を尋ねて、一夜の宿を頼みました。満光寺の和尚は、この家康の頼みを、快く引き受けてくれたので、家康は大変喜び、早速家来を休ませ、自分も床につきましたが、その時和尚に、「明朝一番鳥が鳴いたら、必ず起こしてもらいたい」と頼んでおきました。ところがどうしたわけかその夜は、にわとりが、真夜中に大声で時をつくって鳴きました。和尚は約束どおり、鳥が鳴いたことを話して、家康を起こしますと、家康は飛び起きて、手早く支度をし、家来達をまとめ、礼を手厚く述べて、寺を出かけて行きました。
そのすぐ後、武田軍の追ってである山県三郎兵昌影が寺を囲み、家康の行方を入念に探しましたが、しかし、その時既に家康は、満光寺を退去の後でしたので、目的を達することはできませんでした。」このようなわけで、徳川家康は、本当に危なかった生命でしたが、満光寺のニワトリに、生命を救われたという伝説です。実際に、後に家康は、満光寺のニワトリの恩を忘れず、寺領三石の黒印状を与えてその恩返しをしました。またこの地区は、天領にもなっております。そして昔は、山吉田付近の人々は、もちろんのこと、遠くは関東や関西あたりまで歌われた民謡があります。
「山の吉田の満光寺様のとりになりたやニワトリに」です。

「にわとり」は、真夜中に大声で時をつくって鳴くことは、ありえません。当時どうして満光寺のにわとりは、真夜中に大声で時をつくって鳴いたのでしょうか?
そこで気になるのが、古文書の「伊平古記」に出てくる以下の内容なのです。
「元亀2年(西暦1571年)旧暦10月22日(新暦12月末日)寄せての武田勢の将、山県三郎兵衛(やまがたさぶろべい)は、川名村庄司右衛門を案内人として伊平小屋(井平城)を夜討ちした・・・・」とあります。

武田軍は、井平城に夜討ちを仕掛けたのです。しかも敵味方も分からない夜に鉄砲にて正確に徳川軍の兵に打撃を与えているのです。
観音の里だより「井平城の戦いその3 井平城の戦いの時、家康は満光寺に・・そして岡崎城へ」


夜討ちは、暗闇の中での作戦・戦闘となるため、敵味方を識別できないと同士討ちが発生します。そのため、意図的に夜戦(夜襲)を行う場合は、敵味方を識別する工夫が求められるのです。その工夫とは、昔から伊平に当時の状況が脈々と語り継がれております内容だと考えます。それは、「当時、伊平は、煙火の燃え盛る火の里であった。」と言うものです。
武田軍は、暗闇の中、敵味方を識別できるように、また同士討ちを発生させないように新暦の12月、空気が乾燥している中、井平城に火を放ちました。

つまり、満光寺から見ると東の空が明るくなる状況が発生したのです。故意に明るく夜空を照らす状況であるならば、「満光寺のにわとり」は、朝と間違えて大声で鳴くはずです。
観音の里だより「井平城の戦いその3 井平城の戦いの時、家康は満光寺に・・そして岡崎城へ」



武田軍は、井平城の直ぐ東にある村、川名まで侵攻してまいりました。徳川軍の本陣であります井平城へ攻撃は、夜襲であることが当然予測されておりました。徳川家康は山の吉田の鈴木一族に後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊である殿(しんがり)を任せ、先に満光寺へ落ち延びたと思われます。そこで睡眠し兵を休ませたのです。熟睡し、敵が迫って来たのに気付かず襲われる可能性があります。そこであらかじめ満光寺に、にわとりを用意をしました。そのにわとりは、予定通り、井平城の燃え盛る落城の炎が上がり東の空が明るくなったのを、朝と間違えて大声で鳴き始めました。それによって井平城落城の事態を知り武田軍の満光寺襲来の前に、更に西の岡崎城に逃げ出した。と考えます。



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