いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」

いだいら観音の里のほぼ中央に位置する所に不自然な小高い山があります。何故、不自然なのかと言いますと、いだいら観音の里は、周りを山に囲まれた何所にでもある盆地なのですが、この小高い山は、それらの山とは完全に離れ、周りを道路が走っているからです。
いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」


この小高い山を昔から「卍(まんじ)仏」とされ、祀られてきました。
いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」


「卍(まんじ)仏」とは、大慈悲(だいじひ)を施す者と言う意味です。古代、仏教で国を治めておりました「大和国」の東国の都である、いだいら観音の里の当時の為政者は、人々に金銀等、或いは物資の施しをするよりも仏教により彼岸に導くことにより安楽の心、極苦から解脱した自由自在の心、法利(ほうり)を得る様にすることが、大慈悲の心であり、人々を幸せにする道であると考えておりました。少年は、老いやすく、諸行無常であるのにかかわらず、人の欲望には限が無く、またその欲望により争いが起こりるからです。
また空海も「卍(まんじ)仏」の一人であったことは、いだいら観音の里の長興寺に弘法様として祀られている屋代の中の横断幕に記載されている「卍(まんじ)」の象形文字でも分かります。
いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」


「法華経」には、仏とは、死に至った人を指してはおりません。仏とは、修業して「法華経」説く処の真言、無為無欲に至った人を言います。そして不可思議な事にこの仏になった人は、不老不死になり、その魂は永遠に生き続けると説かれております。また、本来、人には、誰にでも仏心が備わっており、いつでも修業により成仏できますが、この娑婆世界で悪い心を持ってしまった人は、恐ろしいことに、仏には成ることができず、再び人間に生まれ代った際には、険境に生き極苦の苦しみを受け続ける。とも書かれております。これが地獄に堕ちるということなのです。

この永遠に生き続けている「卍(まんじ)仏」、大慈悲の者の化身が、いだいら観音の里 松山観音堂の聖観音(せいかんのん)菩薩であると考えております。
いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」


そして、もともと天上界に居た仏が、娑婆世界に降り立ち、大慈悲の教えを説いた者こそ
山背大兄王(やましろのおおえのおう)であり、その化身が長興寺に居られます聖観音菩薩
なのです。
いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」


いだいら観音の里の「卍(まんじ)仏と松山観音堂 聖観音(せいかんのん)菩薩」




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