観音の里だより「いだいら観音の里は行基(ぎょうき)の都」

観音の里だより「いだいら観音の里は行基(ぎょうき)の都」観音の里だより「いだいら観音の里は行基(ぎょうき)の都」
いだいら観音の里の滝清水の地に清水寺があり、その中に千手観音がお祀りされております。千手観音とは、利他行をしている者の姿を現します。利他行とは、人を助ける行いをすることで、「空」を得て、そして真に強き人へと生まれ変わることです。※「いだいら観音の里 観光案内」の観音堂・観音像のご案内を参照
そして、観音堂への入り口に1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、浜松市北区細江町に在ります初山 宝林寺の
当時の住職、法源禅師が創った和讃が、刻まれております。
「うつしてはここに都の清水の 寺はたやせぬ滝清水かな」
昔、ここに都(パラダイスの地)を移し、滝清水に清水寺(聖地)が置かれていた。この地を絶やしてはならない。という意味です。
この都こそ行基の都です。行基とは、ある特定の人物の名前では、ありません。仏教の経典である法華経の中にある般若経、その中にある利他行の教えを実行に移す利他行を行う集団という意味です。その組織は、道號(どうごう)と隋號(ずいごう)に分かれております。そしてその集団は、人々が幸福になる為、世代を越えて存在し続けます。道號(どうごう)とは、導く者と言う意味で引佐町四方淨に伝わる縁起書には、聖徳太子の御子息の山背大兄王が、行基の初代道號(どうごう)とされております。
観音の里だより「いだいら観音の里は行基(ぎょうき)の都」


ちなみに2台目道號(どうごう)は、中田(現四方淨)の里で生まれた仲田山般若院です。この人物こそ後の行基とされた人物です。3台目道號(どうごう)弘法大師空海、4台目道號(どうごう)理源大師聖宝、5台目道號(どうごう)承陽大師道元、・・と続いていきます。隋號(ずいごう)とは、従う者達です。隋號の中には、山を切り開くような、開拓を行った隋懇坊(ずいこんぼう)なる組織も在りました。伊平から奥の鎮玉地区には,今も隋懇坊の墓が点在しております。全国各地に、行基が行ったとされる仏教の布教、寺や仏像の建立、橋を掛ける、農耕の技術を教える、等、利他行の数々は、西暦658年3月27日、浜松市北区引佐町四方淨にある行基堂(ぎょうきどう)から全国に旅立ち、この集団で行なわれました。
最近、その内容を裏付ける為、奈良檯原考古学研究所により資料の調査が行われました。そして縁起書の内容に間違いの無いことが確認されております。
しかし、資料の保管上の問題がありまして現段階では1級資料を公表することは固く禁じられております。時期がくれば公開したいと思っております。

その昔「いだいら観音の里」は、人々の仲睦まじく暮らす「パラダイスの都」だったのです。




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