いだいら観音の里「井平城の戦い 4」

元亀(1570~1572)の元亀一年(1570)~元亀二年(1571)武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍が、ここ井平城で戦いました。しかし、今までは、この戦いの記録は、殆(ほとんど)無く、秘密のベールに覆われておりました。
武田軍は、背後を襲われるかもしれない徳川軍を残して西へ、移動することはありえません。
 何故、三方原の戦いではなく、井平城の戦いなのか?
徳川、武田の兵士達の供養をしていると言われております遠州大念仏、
いだいら観音の里「井平城の戦い 4」


その遠州大念仏供養が行われている場所を地図上にプロットして観ますと武田軍の侵攻経路が観えてきます。
いだいら観音の里「井平城の戦い 4」


 天竜二俣城を落とした武田軍は、天竜川の浅瀬、今の浜北大橋付近から浜北地区に侵攻して来ました。川を渡り終えた敵を撃つのは兵法の定石であり、浜北大橋周辺地域で遠州大念仏が非常に多いのはその為だと思われます。旧浜松地区、三方原地区には、遠州大念仏供養はありません。
 更に、遠州大念仏供養地から武田軍本体の侵攻経路を探っていきますと、浜北地区から都田地区へ、
都田地区から滝沢地区、東久留米木へ そして川名、伊平地区の仏坂の戦いに成ります。

考察
 現在まで伝わっている徳川方と武田方の陣形については、徳川方は鳥の翼を広げたような鶴翼の陣形に対して
武田方は、一方面を切り崩す魚鱗の陣形であったと言われています。天竜川のどこから侵攻してくるか確定できない徳川方は、鶴翼の陣形を取らざるを得ず、また天竜川を渡った処を襲いかかって来るだろう徳川方に対して軍勢で勝る武田方が
採った魚鱗の陣形は、極めて有効な陣形であったと思われます。
 つまり、鶴翼、魚鱗の陣形で戦ったのは、天竜川を挟んだ時の戦いであったと思われます。


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