元亀(1570~1572)の元亀一年(1570)~元亀二年(1571)武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍が、ここ井平城で戦いました。しかし、今までは、この戦いの記録は、殆(ほとんど)無く、秘密のベールに覆われておりました。
武田軍は、背後を襲われるかもしれない徳川軍を残して西へ、移動することはありえません。
何故、三方原の戦いではなく、井平城の戦いなのか?
徳川、武田の兵士達の供養をしていると言われております遠州大念仏、
その遠州大念仏供養が行われている場所を地図上にプロットして観ますと武田軍の侵攻経路が観えてきます。
天竜二俣城を落とした武田軍は、天竜川の浅瀬、今の浜北大橋付近から浜北地区に侵攻して来ました。川を渡り終えた敵を撃つのは兵法の定石であり、浜北大橋周辺地域で遠州大念仏が非常に多いのはその為だと思われます。旧浜松地区、三方原地区には、遠州大念仏供養はありません。
更に、遠州大念仏供養地から武田軍本体の侵攻経路を探っていきますと、浜北地区から都田地区へ、
都田地区から滝沢地区、東久留米木へ そして伊平(川名を含む)地区の仏坂の戦いに成ります。
更に井平城につながる鳳来寺街道沿いの、愛知県新城市下吉田に柿本城の戦いがあつたことは、記録に残っております。
井平城の落城は、1971年の旧暦10月22日ですが、柿本城の落城は1972年です。
そして、鳳来寺街道沿いの地域では放下(ほうか)と地元では呼ばれております遠州大念仏に似た盆供養が点在しております。
井平城は霧山(標高430m)から連なる尾根沿いの西に在ります小屋山(標高411m)であることは記録に在りますが、霧山を東へ向かいますと川名の町に入ります。
井平城と思われる山は、一見普通の山の様に思われますが、
立体地図で観ますと、まるで
要塞の山城の様に観えます。