青柳瑞穂 著「ささやかな日本発掘」より~伊平村の追憶~
伊平村は、日本の何処にでもあるような当たり前の農村で、これをとりたて言うほどの事もない。一、二時間、田舎のバスに乗っていれば、こんな村は、それとは知らずにいくらでも通過することだろう。高からず、低からずの、平凡な山々、その山に囲まれて蹲(うずくま)っているような家々、小間物屋、薬屋、鍛冶屋、酒屋、駄菓子屋など、ありきたりの小さな店のならんでいる村のメーン・ストリートを、一時間おきくらいに、バスが、白い埃をたてながら、上がったり下がったりしている。料理屋も一軒ある。これは村会議員の宴会の席になるのが主で、あとは、都会地から不意のお客のあった時、村の上流階級の註文に応ずるくらいのものであろう。
まあ、この村の風致でとりえといえば、村にそって流れている伊平川くらいのものか、これだってただの野川で、一ヵ所だけ、料理屋のわきで碧譚をなしているにすぎない。この淵の生簀(いけす)に飼われている鯉は、村一番の御馳走とされ、私などもこの村へ来る毎に、
その恩恵にあずかっている。昔は、鮎もいたし、また近年まで紙を漉いていたそうで、伊平紙というのは、近在に知られていたというから、あの碧譚といい、一応品格のある川だったのだろう。
私が伊平村に出会って何年後のことだったろうか、ある日、その川に沿って歩いてみたことがある。何時もバスや自動車から見る川は知っていたので、村の入口で二俣に分かれているその一方を、探索してみることにしたのである。
つまり、小さな伊平川の、より小さな支流ということになる。
しかし、この支流は、小さいだけにながれも案外に早く、それだけ水も澄んでいて、魚の影さえ明瞭だった。山地にかかるに従って、流れはいよいよ烈しく、いよいよ狭められていったが、板一枚の橋が渡されている処で、その流れも一時停止しているように思われた。なるほど、三つ四つの、さほど大きな石ではなかったが、それでらくらく堰き止められているのである。そして、その澱みの中には、鍋、釜の類が漬けてあった。見れば、五、六匹のメダカが、たった一つの飯粒を中心に集まっている。まるで何かの花のようである。しかし、私の入道みたいな影に驚いたのか、パッと散ったが、また花の姿を形成しようと集まる。私は、それが面白くて、暫く立ったまま、見惚れていたところ、黒い鍋釜にまざって、一枚の皿が沈んでいることに気づいた。初め鍋釜とばかり思っていただけに、到ってこの皿の存在は、私の注意をひいたらしい。一尺ばかりの黄色っぽい皿で、おもてに淡い藍で水草の絵が、描かれている。そして水がお釜の縁にあたって微かに渦まくごとに、皿の薄青い水草もゆらゆらと揺れる様にさえ思われた。
その姿といい、絵附といい、これはどうしても近頃のものでは、なさそうだった。だいいち、こんな名のつけようのない皿を、私はこれまで何処でも見たことがない。その頃、私は古い陶磁器に興味を持ちはじめていたやさきだけに、どうかしてこの水中の皿がほしい。
水中といったところで、生簀の鯉の遊泳しているあの碧譚の底ではない。片腕をぬらしさえすれば、すくい上げることが出来る。
さいわいなことには、私がそれをすくい上げる前に、草履を引きずる音がして、一人の老婆がこちらにやって来た。彼女はすこし川下の、あの小さな農家から出てきたものらしい。この名もない美しい皿の持ち主は、彼女だったのである。
私はありのままを述べて、お婆さんからそれを譲り受けることが出来た。
これが「石皿(いしざら)」だったのである。
私は後になって初めて知ったのだが、石皿は、既に柳宗悦氏によって発見され、評価され、民芸品として有名だったのである。(中略)
あの流れのほとりでめぐりあった石皿は、私に陶器というものの在り方を教えてくれたと言っても、これは言い過ぎではなさそうである。(以下略)
青柳瑞穂(あおやぎみずほ)(1899~1971)氏の経歴
山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の家系。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。
1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れて1919年に上京し、慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生奥野信太郎と親交を結ぶ。1922年、慶應義塾大学仏文科に入学。在学中にアンリ・ド・レニエの小説を日本語に翻訳し、永井荷風の個人指導を受ける。留年を経て1926年に大学を卒業後、堀口大學の門人として、『パンテオン』『オルフェオン』『セルパン』などに創作詩を発表。やがて詩作から遠ざかり翻訳業に専念。
1937年、東京都杉並区の古道具屋にて、尾形光琳筆の肖像画『中村内蔵之助像』を7円50銭で発掘、大きな話題を呼ぶ。1949年、ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の翻訳により戸川秋骨賞を受賞。1950年、慶應義塾大学仏文科ならびに同予科の非常勤講師となる。1961年に『ささやかな日本発掘』により第12回読売文学賞受賞。
1971年12月15日、急性肺炎で死去。中央線沿線に住む文士たちの集い「阿佐ヶ谷会」のまとめ役でもあった。