いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」

和讃とは、「古代、この地がどんな、意味のある場所であつたか、またこれからすべき事柄」を今に伝える歌です。
いだいら観音の里の滝清水 清水寺にある和讃に、過去の真実が書かれておりました。
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、初山 宝林寺の当時の住職、法源禅師が創ったもので「うつしてはここに都の清水の 寺はたやせぬ滝清水かな
という歌です。
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


古代、ここに都が移され、滝清水の地に聖地が置かれていた。この土地を絶やしては、ならない
と言う意味です。実際、この聖地は、約80年間日本の政治を司り、仏教を広く普及させることにより、日本人としての仏教が説くところの清く潔癖な精神を創った地であります。時々、日本人は、無宗教であることが話題に上りますが、そうでは無いのです。既に、無意識の中に、人として一番重要な精神が、仏教の教えとして宿っているのです。
現在の浜松市北区にある都田の地名の由来は、古くに都が存在していたことに拠るとされております。都田地域には、「古代、都をこの地域に移したが、存続できなかった。」と言い伝えられております。
実際に西暦642年~729年の約1世紀ですが、古代、伊平を中心とする「行基(ぎょうき)の都」が、存在致しました。「行基(ぎょうき)の都」とは、菩薩(ぼさつ)行をする集団の都と言う意味です。菩薩行とは、戒(かい)行により自らを戒め、施(せ)行により、人の為に生きることを目的とした行いをすることです。浜松市浜名区引佐町四方浄に伝わる風土記に拠りますと、この集団の菩薩達は、西暦658年3月27日より行基の都を中心にして松の枝の様に全国に散らばり、寺院や仏像等を建立をして、人々に仏教を布教すると共に、水田稲作の普及や橋を掛けたり、開墾等の土木事業、また鉄製の鋤(すき)、鍬(くわ)等の農作具の提供を行いました。これらの活動の為の費用は、大和国王への貢物として全国から集まる珍宝物により全て賄われました。

行基の都は、大和国王が治め、密教の経典であり無上のものとされる「法華経(ほけきょう)」の説くところの大乗の教えに従い、仏教によって誰もかれもが、幸せに暮らすことができる仏の世界を目指すものでした。インドの釈迦の弟子である提婆達多(だいばだった)の説く教えで、インドより中国を経て伝わる教えなのですが、非常に難解な「法華経(ほけきょう)」は、民の幸福を強く願う聖徳太子により解釈がなされました。そして、「法華経」が説くところの内容に従って衆生の幸せの為に仏教を布教し菩薩行を実行されたのが、西暦642年、中臣氏との戦いを避ける為に奈良 飛鳥の地から、大和国の東国の屯倉(みやけ)であり、当時、蝦夷地と言われておりました遠江(とうとうみ)の井平(明治に伊平に変更)の地に都を移した御子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)でした。当時、17、18歳の頃とされます。
戦えば勝利することのできる中臣氏との戦いを避けた理由は、「法華経」の教えの中で、殺・盗・淫(せっとういん)を固く禁止しているからです。
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


その「法華経」に罹れている内容とは、政治は、太子に任せ、自らは、捨てがたき王位、妻子、財宝を捨て、大菩薩となり衆生(しゅうじょう)を苦悩から救い、浄土へと導かねばならない。と言うものでした。山背大兄王は、存命の身でありながら戒名を、古瀧山龍王院と名乗りそして大菩薩として「行基」と言う集団を創り、全国に仏教を布教していきます。その後、西暦668年、浜松市浜名区引佐町四方浄で生まれた仲田山 般若院は、西暦686年、父の山背大兄王が64歳で遠州渋川の地で命終の後、18歳でその志を引き継ぎ、行基集団の道號(どうごう)して父と同じように全国に仏教を普及していきます。古瀧山龍王院と後に、歴史上に、行基菩薩とされる仲田山 般若院、この二人が居なかったとすれば、日本に仏教が、根付く事はあり得ませんでした。そして、その後には、真言宗の開祖である空海が「行基」の三代目の道號(どうごう)として二人の志を継いでいくことになります。
  遠州渋川大代にある古瀧山龍王院の墓
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


          浜松市北区四方浄の行基堂にある仲田山 般若院 坐像
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」



日本に初めて仏教が伝わったのは、紀元前後に百済国によりもたらされました。そして、この国独自の仏教として聖徳太子により改良が、なされ、日本人の意(こころ)である精神的な土台が形成されました。
日本仏教は、全てこの大乗の経典である「法華経(ほけきょう)」の教えを広める為に存在しております。
「行基の都」は、「法華経」の教えに基づいた大乗仏教、即ち日本仏教の発祥の地なのです。
行基の都である遠州渋川 寺野地域に古くから伝わる民芸である「ひおんどり」で語られる詞を表した「ひおんどり 詞章集」には、仏の教えを信じ、心安らかに和気藹々として、幸せに農作業に励む当時の都人(みやこびと)の姿が、語られております。
              遠州渋川寺野 ひおんどり 詞章集
いだいら観音の里は「行基(ぎょうき)の都~日本歴代、最も重要な政治を行った京の都~」


私達は、「行基(ぎょうき)の都」の子孫として、過去からの遺言状に応える為に、この地が絶えることなく、誰もかれもが、幸せに暮らすことができる仏の世界を目指さなければらないのです。



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