現在は、下の写真の様に、トンネルは、もう存在しておりませんが、

浜松市北区東黒田の旧トンネル(下の写真は昭和50年前後に撮ったもの)上

に土地の人々が今に獄門場という所があり、ここに「無名の墓」という墓石が建っておりました。

明治の初め伊平で三人組同志のやくざが、喧嘩となり、東黒田と的場の堺の山上で決闘をする事になりました。一人は伊勢の生まれで、この付近では、知らぬ者のない信太郎と言う、ならず者でした。敵わないと思った相手は、仏坂より、たすき掛けをし、抜刀して登ってくる信太郎を先回りして、竹藪(たけやぶ)で待ち伏せて、後から信太郎に狙いをつけて鉄砲で撃ち殺してしまいました。残る二人は逃げましたが、獄門場と向坂付近で切り殺されてしまいました。それからというものは、獄門場付近で、夜な夜な、どこからともない呻き声が、聞こえて来るという噂が、広がって、人々は不安に怯えていました。
当時、引佐麁玉郡の第二代郡長 松島吉平(十湖)は、奇人とうたわれた行動力のある人でした。吉平は、死んだ身寄りのない人を哀れんで「無名の墓」を建て、人心を治めたと言う事です。松島吉平は、松島十湖と云い、今芭蕉と言われた俳句の達人でした。

松島十湖は、嘉永二年浜名郡豊西村の旧家に生まれ、幼くして父、弟と死別し、人生の無情を痛感し、俳諧を志して浜松の栩木夷伯(とちぎいはく)に師事し、十七才にして既に偉才を発揮していた。更に人の為になる事をやらねばと二十才の春、二宮尊徳(にのみやそんとく)の高弟子である小田原の福山竜助の門に入り、二十六才で郷里の戸長、浜松の公選民会議員となり、三十三才の若さで第二代の引佐麁玉郡長に就任した。そして農業の振興や学校の新設や道路の整備に奔走しました。十湖は、まさしく引佐郡の先駆者であり、その精力的な活動は、多くの人を心服させた。六か年の郡長を去る日、郡境に見送りに集まった人は、数千人を数えたと伝えております。今、伊平の西黒田の公民館には、十湖の「引佐留別」の句が、あります。
「苅跡を立ち去り惜しむ案山子(かかし)かな」

やがて公職を離れた十湖は、俳人として又型破りの行動から一躍名を高め、今芭蕉と言われました。浜松の八幡神社の句碑「浜松は出世城なり初鰹魚(はつがつお)」は、あまりにも有名です。松島十湖は、松島授三郎氏や伊平の野末九八郎氏と親しく三遠農学社(さんえんのうがくしゃ)を後援して多くの功績を残しています。こうした事で、伊平地区には、十湖の俳句、二十数句が残されています。