観音の里だより「井平城の戦いその4 戦いの全貌(YouTube)」

武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍が戦ったとされる「元亀の乱」、元亀元年(西暦1570)~元亀3年(西暦1572年)の時、「三方ヶ原の戦い」が、在ったとされますがその戦いの様子を示す資料は全く残っておりません。大きな戦いであったのにかかわらず、戦いに関する資料が残っていないことは、誰かが故意に史実を消したとさえ思われるのです。
話は逸れますが、哲学者の梅原 猛は、日本人の深層心理の中に「言霊」信仰があることを探り出しました。「怨念(おんねん)」という考えです。怨念を持って亡くなった人の魂は、祟(たた)る。と言う意識です。つまり繁栄する為には、祟られない様に怨念を成仏させる為に祀らなければならないのです。
「遠州大念仏」は、三方ヶ原の戦いで亡くなった徳川方の兵士を弔う祀りです。徳川家繁栄のため徳川方の戦死者の怨念を成仏させる為の祀りなのです。それ故、「遠州大念仏」の供養は、未来永劫続く事に成ります。
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遠州大念仏動画 下のURLをダブルクリックしてください!
https://www.youtube.com/watch?v=CZE5zs3zDuA


https://www.youtube.com/watch?v=fDa0K653SoI

「遠州大念仏」の現在行われている地区を調べ、地図にプロットしていきますと、どこで戦いがあったのか分かります。
観音の里だより「井平城の戦いその4 戦いの全貌(YouTube)」


更に詳しくプロットした図を観ると天竜川を挟んで現在の浜北大橋の西を中心に鶴(つる)が翼を広げた様な形に成ります。鶴翼の陣形なのです。そして武田軍の陣形は浅瀬を渡る為、魚燐の陣形になります。更に詳しく観ると、遠州侵攻路も知ることができるのです。
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 戦いの全貌検証動画 下のURLをダブルクリックしてください!
https://www.youtube.com/watch?v=PLnoRrdNjq4

武田軍の本体(武田信玄・勝頼)は、浜北大橋付近から都田を通って真っ直ぐに刑部城(浜松市細江町中川)へ、更に北上して陣座峠(浜松市引佐町狩宿)を越え新城市へ、そして山県昌景率いる別動隊は、宮口(浜松市浜北区宮口)から本体と離れ、東久留女木(浜松市北区引佐町)を通って川名(浜松市北区引佐町)へそして「井平城の戦い」に成ります。
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「元亀の乱」の当時の徳川家康の居城は、曳馬城(現 浜松城)でした。曳馬城は、まだ規模が小さく、城に立て籠もって戦える城ではありませんでした。その為どこか他の場所で戦う必要がありました。条件として、堅固な城であること、それから敗戦した場合の退路が開ける場所であることです。井平城(小屋城)は、本陣として堅固な城であり、家康自身の元来の領地であります岡崎には、新城市を越えれば直ぐに辿り着く場所に在ります。
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山県昌景も加わった「二俣城の戦い」で、敗走した徳川方の兵は、天竜川の浅瀬(現 浜北大橋付近)を通って逃げました。その為武田軍は、どこが浅瀬で、その浅瀬がどんな状態なのか知ることができました。しかし川での戦いは、先に動いた方が負けることに成ります。何故かと申しますと浅瀬は、幅が狭く魚鱗の陣形を作るしか無いのです。川を渡った武田方の兵を徳川方の鶴翼の陣形で四方八方から攻めれば簡単に勝つことが出来るのです。「孫子」の兵法書には、川での戦い方に関してこう指摘があります。
「水を絶てば必らず水に遠ざかり、客 水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うる勿く、半ば済[わた]らしめてこれを撃つは利なり。戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うること勿かれ。生を視て高きに処り、水流を迎うること無かれ、此れ水上に処るの軍なり。」

川を渡り終えたならば、必ずその川から遠ざかる。敵が川を渡って攻撃してきたときには、敵軍がまだ川の中にいる間に迎え撃ったりせず、敵兵の半数を渡らせておいてから攻撃するのが有利な戦法である。渡河してくる敵と戦闘しようとする場合は、川岸まで出かけて敵を攻撃してはならない。これが河川のほとりにいる軍隊についての注意である。

最近の調査では、軍勢は武田方約2万5千に対し徳川方・織田方双方で約2万~2万7千とされております。つまり軍勢で同等な徳川家康は、刀(かたな)、槍(やり)や弓矢(ゆみや)を用いての川での戦闘では、武田信玄に絶対に負ける分けが無かったのです。
ところが予期せぬ出来事が2つ発生しました。1つ目は、武田軍の騎馬の威力が予想以上の力で防御態勢を破壊してしまったこと、2つ目は、防御態勢を立て直して反撃しようとした徳川軍に対し武田軍の鉄砲隊の攻撃により深刻な敗戦状態になってしまったことです。後は、敗走する敵を倒すことは、意とも簡単な事なのです。当時の記録では、有玉方面に敗走する兵を追って戦いが始まったとされております。以後、雪崩(なだれ)を打って徳川軍は敗走することになります。



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