徳川家康率いる徳川軍と武田信玄率いる武田軍が遠州・三河で戦ったとされる戦いは「元亀の乱」と呼ばれておりました。元亀元年(西暦1570年)~元亀三年(西暦1572年)の戦いです。後に「三方ヶ原の戦い」とされ、教科書にも取り上げられております。
伊平には二つの古文書が存在して居ります。「伊平実記」と「伊平村古記」の古文書です。
これらの古文書には、当時、伊平が激しい戦場で在ったことが記されておりますが、まったく正反対の内容になっております。「伊平実記」には元亀三年(西暦1572年)10月22日に、武田方、別動隊の山県昌景率いる軍が、山の吉田の柿本城を落とし西から東方向に
井平城を攻めたとあります。それに対し「伊平村古記」には、元亀二年(西暦1571年)10月22日(新暦12月末日)伊平より東の村、川名村の庄司右衛門を案内人として別動隊の山県昌景率いる軍が東から西方向に夜襲をかけ井平城を攻めたとあります。西からの攻めなのか、東からの攻めなのか、どちらかは、本当の内容で、どちらかは、創られた内容です。

「三方ヶ原の戦い」は、元亀三年(西暦1572年)12月22日とされております。「三方ヶ原の戦い」までの日にちを考慮して、今までの歴史家は「仏坂の戦い」をその前哨戦と考え、「伊平実記」の内容を真実としてきました。しかし、「伊平村古記」の信憑性を裏付けるような、見過ごされていた史跡があったことに気が付きました。それは、仏坂を十一面観音像が安置されておる竹馬寺までの道下の南北に伸びる「箱堀」と呼ばれる大きく、深い溝です。

そして、故意に掘られたこの「箱堀」を境に東から西方向に徳川軍兵士の墓石が無数に点在しております。

つまり武田軍は、井平城を東から西方向に攻めてきたことになり「伊平実記」の内容は創られた内容であることになります。そして「伊平古記」の内容が真実なら「三方ヶ原の戦い」は無かったことになります。
「仏坂の戦い」は、この「箱堀」での両軍の激しい戦いでした。
重要な戦いの山城には、必ず大きな「土塁」や「堀」が存在しております。こんな近くに、あまりにも大きいゆえ今まで見過ごされていた「箱堀」がありました。衝撃的ですが、
幅50m高さ10~20m奥行500mにも及ぶ「箱掘り」は、明らかに徳川軍が武田軍の鉄砲攻撃による備えをしたもので、元亀の乱の際、
既に、武田軍は、圧倒的な鉄砲による攻撃をしたものと考えます。武田軍は、更に東から西に引佐町狩宿の陣座峠を越え、奥三河に進行して一隊は、元亀三年(西暦1572年4月落城)新城市野田城に、そしてもう一隊は、元亀三年一月(西暦1572年1月)に愛知県新城市~静岡県浜松市三ヶ日に通じる宇利峠を越え、元亀三年(西暦1572年10月まで)吉田城(現豊橋城)を攻撃しております。そして西暦1575年6月29日の設楽ヶ原の戦いを時間軸に取り逆算して見ると、やはり「伊平実記」に記されている井平城の戦いの時期、西暦1572年(元亀三年)10月22日は成り立たないのです。ましてや、井平城の戦いの後、西暦1572年12月(元亀3年12月)にあったとされる三方ヶ原の戦いは、その後の奥三河の侵攻も考えると、あり得ないことなのです。
伝わっているように西暦1572年12月(元亀3年12月)に三方ヶ原の戦いがあったとします。武田軍は、年が変わって西暦1573年の1月には宇利峠を越え、4月22日に奥三河の足助(あすけ)城、4月24日に同じく奥三河の野田城を陥落させ、その後三河の吉田城(現豊橋城)に侵攻します。
武田信玄急死の為、西暦1573年の10月に攻撃中の吉田城から撤退して甲斐(現山梨県)へ引き返します。
三方ヶ原の戦いが元亀3年、西暦1572年12月(元亀3年12月)とした場合、吉田城から撤退し、甲斐の国へ行き返し始めるのが西暦1573年10月です。武田勝頼が惨敗した西暦1575年6月29日の設楽ヶ原の戦いまでの時間は、1年と9か月しかありません。この時間では勢力を整え、攻め込んで来ることはできません。
故に「伊平村古記」に書かれている伊平城の戦いは、元亀2年西暦1571年12月(新暦)で間違いは無いと考えます。
伊平城の戦いの後にあったとされる三方ヶ原の戦いは、時間軸的にも存在しえません。
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