小さい時から、遊んでいた同級生が亡くなったという知らせが突然届き、
最後のお別れということで、やっと数名集まりました。中には40数年ぶりに会った友達もおりました。
不思議なことに40数年も時が過ぎているのに、いつも会っていたような気になりました。
同じ感性を持っているのです。昔、太陽が今よりも、もっと大きく、暑く、川が今よりも、もっと深く、大きかった様な気がしていた頃、山を駆けずり回り、缶けりをして遊んでいました。
そして、気が付くと太陽が西に沈みかけておりました。当然、学力は、都会の子供たちと比べればとても低く、鼻垂れ小僧や何かぼ~としている子供ばかりでしたが、自然の中で、感性が養われていたのでした。
浜松動物園にての嘗ての伊平幼稚園の自然児
後に、貪るように読んだ「ファーブル昆虫記」は、人間中心に捉えていた私の世界観を一変させましたが、幼少期に自然の中で昆虫と戯れていた私にとってその内容は大変興味深いものばかりでした。
長い年月を経てようやく気が付きました。混沌とした時代を生き抜くには、学力ではなく、自然の中で養われた感性が非常に重要であることに。
未だ、「そんな馬鹿ことは無い!東京大学出の人は、中学しか出てない人より優れている」と見下し学力偏重の考えを持っている人のその後の人生では、多くの苦しみを味わうことになるのです。これを因果応報であると「法華経」には説かれております。更に
無大無小・無生無滅なのです。つまり人は優劣など無いし、成功者、失敗者、生も死など何も無い。ただ宿命により活かされているだけなのです。そして
無漏無為なのです。真直ぐな感性と善良な心を持っていないと、宿命を知ることや徳を得ることができず幸せには、導かれないのです。ただそれだけです。これが、
「法華経」が教える宇宙の真理の言葉、真言なのです。そして徳を得られる人に導くのが「法華経」の教える仏道なのです。
ちなみに仏教で国を治めていた聖徳太子が定めた冠位十二階では、上から大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智とされ、智を自慢している人は、一番、位が低い人となるのです。そして真直ぐな感性と善良な心を持ち徳を得た人が、人間として最上の人とされております。
万事を全て理屈で考える智の者は、仏教が説くところの不可思議(ふかしぎ)な内容を信じることができないし、許せないのです。即ち仏智を悟ることができないのです。これを「法華経」では、愚者と言います。又智の者は、欲の為、大道を反れ、図り事である策を用いる為に善良な心失うことになる。と「法華経」には説かれております。
花咲か爺(はなさかじじい)の民話は、正直で善良の人が、そうでない人に比べて、如何に徳を得られるのかを述べております。