歴史は、全て勝利した者の記録として残されます。そこには、都合の悪い内容は消され、或いはねじ曲げられて、残されます。元亀3年(1572
年)12月22日徳川軍と武田軍が戦った三方原の戦いもその一つです。元亀2年(1571年)10月22日(旧暦12月)にいだいら観音の里、仏坂の戦いがありました。
「伊平古記」にも詳細に記されその内容は、確かな物です。その戦いは、壮絶を極めた、激しい戦いで、この里は焼土と化しました。里には、ふろんぼ様と呼ばれる戦いによる戦死者の墓が残っております。
徳川方の重臣である、井伊飛騨守は戦死、そして徳川家康、遠州侵攻の際に最も尽力した鈴木重勝は、この戦いにより2人の子供、重時、重俊を失うことになりました。
重臣が亡くなる戦いは、大敗北を意味しております。現在までの残る歴史の記録の内容は「元亀3年(1572年)12月22日に、武田軍魚麟の陣形、徳川軍鶴翼の陣形にて三方が原で華々しく戦うとあります。」しかし詳細な記録は残っておりません。実際には、
元亀3年(1572年)鳳来寺街道を仏坂から東に向かうこと約6kmの地点、山吉田(愛知県新城市)にあった徳川方の城、柿ノ本城が武田軍により落城いたしました。そして、柿ノ本城の麓にある寺、満光寺には、「ニワトリ」の伝説が残っております。
元亀の頃(1570~72)徳川家康が甲斐の国の武田信玄の軍勢に追われて、山吉田まで退いてきた時のことです。その時、ちょうど夜になってしまったので、家康は付近の満光寺を尋ねて、一夜の宿を頼みました。満光寺の和尚は、この家康の頼みを、快く引き受けてくれたので、家康は大変喜び、早速家来を休ませ、自分も床につきましたが、その時和尚に、「明朝一番鳥が鳴いたら、必ず起こしてもらいたい」と頼んでおきました。ところがどうしたわけかその夜は、にわとりが、真夜中に大声で時をつくって鳴きました。和尚は約束どおり、鳥が鳴いたことを話して、家康を起こしますと、家康は飛び起きて、手早く支度をし、家来達をまとめ、礼を手厚く述べて、寺を出かけて行きました。
そのすぐ後、武田軍の追ってである山県三郎兵昌影が寺を囲み、家康の行方を入念に探しましたが、しかし、その時既に家康は、満光寺を退去の後でしたので、目的を達することはできませんでした。このようなわけで、徳川家康は、本当に危なかった生命でしたが、満光寺のニワトリに、生命を救われたという伝説です。実際に、後に家康は、満光寺のニワトリの恩を忘れず、寺領三石の黒印状を与えてその恩返しをしました。またこの地区は、天領にもなっております。そして昔は、山吉田付近の人々は、もちろんのこと、遠くは関東や関西あたりまで歌われた民謡があります。
「山の吉田の満光寺様のとりになりたやニワトリに」です。
この話が本当のことなのか、満光寺の現在の住職に確認しました。徳川家二代将軍秀忠まで御朱印状が与えられたとのことです。そして満光寺に代々の住職に昔より伝わる史話は、「家康は、岡崎城に逃げ去った」と言うものです。
武田軍は、岡崎城に逃げ込もうとする家康軍を更に攻め三河まで侵攻しました。1月(旧暦)に宇利峠(愛知県新城市)を超え、4月(旧暦)には、野田城(現愛知県新城市豊島)を攻略をして、徳川方の酒井忠次が守っていた吉田城(現愛知県豊橋市今橋町)を包囲し攻略したのですが、その防御固くして落とすことができず遂に帰国しました。
帰国した原因は、武田信玄の病死説もあり定かではありませんが、野田城を包囲中、毎晩城内から流れる美しい笛の音に誘われ本陣を出た武田信玄は、城内から狙いを定めていた菅沼氏配下で鉄砲の名手・鳥居半四郎に胸を撃たれ倒れ、やがてその傷が元で亡くなったと、いう伝承があります。その現場は野田城のすぐ西にある法性寺にあります。
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