「行基が納める仏教の都(パラダイスの地)」がどうして無くなったのか?
という事ですが、その前に伊平 仏坂にあります行基が創ったとされる「十一面観音菩薩像」の話をしなければなりません。
引佐町四方浄に伝わる「行基」の縁起書によりますと
「四方浄で生まれたとされる仲田山般若院は、その後三洲新福寺の上人に引き取られ十五才まで養育され、十八才(西暦706年)にて村人に仏教を布教するために、四方(東方川名に薬師如来、西方的場に阿弥陀如来、北方別所に釈迦如来、南方伊平に十一面観音)に安置し中田の里を、四方浄と改めた。」とあります。
この十一面観音は、確かに西暦706年仲田山般若院により伊平、仏坂の地に創られました。しかし、その時の仏像は焼失して、現在残る仏像の創られた年代を鑑定していただきますと、平安時代の後期から鎌倉時代の初期であるという鑑定結果に成ります。
そこで、思い出されますのは、聖徳太子が造られたとされます「法隆寺」と「四天王寺」
のことです。日本書紀には、西暦670年に「法隆寺」は、屋余すとこなく焼失したとあります。また西暦690年には、「四天王寺」も焼失しました。そして西暦710年頃に伊平
仏坂にあります十一面観音菩薩像も焼失したのでは、と思っております。この十一面観音菩薩像の焼失と時を同じくして
「行基が納める仏教の都(パラダイスの地)」は、無くなり大和朝廷は完全に滅亡してしまいました。
西暦710年とは、神の聖地であります「伊勢神宮」が設立され、藤原不比等が編集したと言われる「日本書紀」が誕生した年です。そして天皇を中心とする中央集権国家が確立した年でもあります。
では、「法隆寺」「四天王寺」を再構築していった者は誰か?これらは、歴史の不思議とされ、聖徳太子の子孫であることしか考えられないと言ったものでした。
「法隆寺」「四天王寺」そして「仏坂 十一面観音菩薩像」を再構築した者
それは、世代を超えて存在し、聖徳太子の御子息であります山背大兄王が創った集団、「行基」の人達しか考えられません。