井平氏と井伊直虎の関係は、直虎の曽祖父の時代へと遡ります。運悪く今川氏との戦いに敗れたとは言え、井伊家にあって傑出した武将であった井伊直平の妻は、井平河内守安直の娘を迎えております。そして祖父の井伊直宗の妻もまた、井平河内守直郷の娘を迎えております。
この様に、井伊氏と井平氏は、固い血縁関係で結ばれておりました。
しかし、井伊直宗の時代以降、井平氏の記録は、途絶えてしまいます。
天文十三年(西暦1544年)、井伊直満、井伊直義兄弟が今川義元に断罪の命令を下られる原因となった連歌師、谷宗牧(たにそうぼく)が、三河野田城(新城市)より途中 井平に立ち寄った際、樽、魚等の接待をしたのは、本来 井平氏であるべきところですが、実際に接待をしたのは、井伊彦三郎という者です。
これより時代を下り元亀3年(西暦1572年)武田信玄配下の武将山県三郎兵衛昌景と伊平(いだいら)仏坂での戦いで徳川家康配下の武将、井伊飛騨守と鈴木出雲守権蔵が戦死したことが記されておりますが、戦った人の中に井平氏の名前は見当りません。井伊飛騨守とは、
誰なのかはっきりとは分かっておりませんが、井伊彦三郎であると言われております。
それでは、井伊直宗の時代に何があったのでしょうか?
天文十一年(西暦1542年)井伊直宗は、今川義元の命を受け、織田家配下の三洲田原、戸田氏を攻めに向かった折、野武士の敵にあい、悲運な最期をとげております。この時行動を供にした井平氏も又亡くなったことが推察されます。つまり井伊氏と固い血縁関係で結ばれていた井平氏はこの戦いで滅んでしまいました。その井平氏の先祖代々の墓は、井伊家菩提寺の龍潭寺でお祀りされております。
天正元年(西暦1573年)井伊直平の側室の子であります河内守直種が井平領の当主となり伊平殿村を住処とするようになりました。
直種の子であります弥三郎は、井平河内守を名乗っております。しかしその井平氏も天正十八年(西暦1590年)六月、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた折、この戦いに加わり、若干18歳で亡くなっております。
これにより井平氏は、絶家となってしまいました。河内守直種を祖とする井平氏の墓は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに伊平四区殿村にお祀りされております。