観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」

井平城の縄張り図は、国学院大学城郭研究会により作成されておりましたが、その史跡がどの様な姿なのかが、分かっておりませんでした。
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


NPO法人のメンバーが、井平城(小屋城)の史跡を巡るコースを造るため、「城山」と云われる場所の、周辺の樹木や竹を伐採したところ、見事な史跡が現れました。周りに堀が回(めぐ)らされ、
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


堅堀(たてぼり)、
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


帯曲輪
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


深い切岸
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


など幾重にも防御を施された跡が見つかりました。西側は、絶壁な自然要塞です。
観音の里だより「明らかになった井平城(小屋城)」


このことから井平城(小屋城)が如何に重要な場所であったか分かります。「仏坂」は、井平城(小屋城)の「城山」から道伝いに西に向かえば直ぐ目と鼻の先です。そして徳川軍の武将の墓は、「仏坂」から鳳来寺街道沿いに点々と西側方面に存在して居ります。
西暦1570年~1572年の「元亀の乱」の時、武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍がここ「井平城(小屋城)」で戦がありました。ここで注目していただきたいことは、武田軍は、西から東方向に「井平城(小屋城)」に攻めてきたのか、東から西方向に攻めてきたのか、どちらから攻めてきたのかという事なのです。
「井平城(小屋城)の戦い」を元亀3年(西暦1572年)12月「三方ヶ原の戦い」の前哨戦をする考え方が一般的です。山県昌景率いる別動隊が「井平城(小屋城)」より西に位置する山の吉田の「柿本城」を落とし西方向から東方向へ攻め元亀3年10月(西暦1572年)「仏坂の戦い」になり「井平城(小屋城)」を落とし更に東方向(川名方向)へ侵攻し、天竜川を渡って侵攻してきた本体と合流し、元亀3年12月に「三方ヶ原の戦いを」を迎え、三河侵攻は天正元年(西暦1573年)に始まり天正2年(西暦1574年)近くまで続いた。と言うのです。(小和田教授の説)。これではその後の天正3年6月(西暦1575年)「設楽ヶ原の戦い」の時間的な整合性が全くとれないのです。
しかし古文書の「伊平古記」に拠ると「井平城(小屋城)」よりも東に位置する川名地区から川名村の住人 庄司右衛門(しょうざえもん)を案内役として元亀2年(西暦1571年)10月(新暦12月)「井平城(小屋城)」に夜打ちをした。と有るのです。
つまり山県昌景率いる別動隊は、東から西に向かって侵攻したと言うのです。
史跡の状況からすると東から西側に攻めてきたのが正しいと思われます。
「三方ヶ原の戦い」は実際にはその存在が無く創られたもので(観音の里だより「誰が三方ヶ原の戦いを創ったのか」を参照)、「井平城(小屋城)の戦い」の中でも最大の激戦地である「仏坂の戦い」が西暦1570年(元亀1年)~1572年(元亀3年)「元亀の乱」の徳川方の組織された最後の戦いであった。という説は、その後、武田軍は、別動隊の「井平城(小屋城)の戦い」を細江町中川 刑部(おさかべ)城に留まり、雪の降りしきるさなか、様子を窺っていた本体は、勝利したこを見極めると、散る様に逃げる徳川方を追うようにして、浜松市引佐町奥山陣座峠を越え、別動隊は鳳来寺街道を西進して、三河に侵攻し元亀3年(西暦1572年)1月「柿本城」、4月「野田城」を攻略し更に吉田城(現豊橋城)を攻めていた最中、10月に不慮の事態があって甲州へ引き上げた。と言うものです。
歴史ロマンを求め、どちらが正しい説なのか、大勢の歴史家による検証が、始まろうとしております。



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