観音の里だより「古代史 学校で教えられた歴史と実際の歴史」

大化の改新は、中臣鎌足と中大兄王子(※中臣家の長男と言う意味)が西暦645年に蘇我氏一族を滅ぼしたものとされますが、その事に、何の意味があるのか教えられていません。
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大化の改新とは、もともとこの国の海の民、海人一族の頭首とその長男が、当時仏教により国を治めておりました「和」国に反旗を翻した出来事なのです。実際には大化の改新以降、中国「隋(ずい)」の国を参考にした律令制の制定や排仏毀釈政策が行われます。それまで「和」国が仏教によってこの国の治めていた制度を、根底から覆したのです。「和」国の国王であり、大王天皇と言う称号を持つ聖徳太子が造られたとされます「法隆寺」と「四天王寺」、日本書紀には、西暦670年に「法隆寺」は、屋余すとこなく焼失したとあります。また西暦690年には、「四天王寺」も焼失しました。それまで存在して居りました寺や、仏像は、ことごとく廃墟となりました。そして西暦710年頃に伊平仏坂にあります当時の十一面観音像も焼失されたと思っております。この時代の歴史の詳細は、ほとんど分からず現在の歴史は、中臣鎌足の孫(中大兄王子の子)藤原不比等が編集したとされる「日本書紀」、「古事記」の内容に拠りますが、それは藤原家が創った歴史なのです。つまり勝利した者の歴史なのです。ですが、聖徳太子が編集したとされる「国記」、「天皇記」、「本記」は現存できる分けがありませんので当時の歴史を知るには「日本書記」、「古事記」の内容を読み解くしかありません。その内容とは、代々、日本とは、伊勢神宮に代表されるように天照大神を中心にした神の国なのです。海人一族の側からすれば間違えではないのですが、歴史認識が、混乱致します。
古い中国の書物には、「倭国」(和国の蔑称)の時代(紀元前100年~600年)整然として幸せに暮らす国であったことが記録されております。しかし「大化の改新」以降、「大宝律令」や「養老律令」などを制定して「律令国家」を目指しますが国は乱れて行きます。権力争いが頻繁に起こったり、また流行病が生じたりと民の心は疲弊いたします。いくら法律や刑法で民を治めようとしても国は乱れるのです。そんな状況の中、中臣鎌足の孫(中臣鎌足の腹違い子である大海人王子の子)の聖武天皇は、再び仏教の力を借りてこの国を治めようとします。
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話は変わりますが、伊平仏坂 十一面観音菩薩像の由来は、 引佐町四方浄に伝わる「行基」の縁起書によりますと
 「聖徳太子の生まれ変わりとして四方浄で誕生したとされる仲田山般若院は、その後三洲新福寺の上人に引き取られ十五才まで養育され、十八才(西暦706年)にて村人に仏教を布教するために、四方(東方川名に薬師如来、西方的場に阿弥陀如来、北方別所に釈迦如来、南方伊平に十一面観音)に安置し中田の里を、四方浄と改めた。」とあります。
この十一面観音菩薩像は、確かに西暦706年仲田般若院により伊平、仏坂の地に創られました。しかし、その時の仏像は焼失して、現在残る「行基」が創ったとされる仏像の作られた年代を鑑定していただきますと、平安時代の後期から鎌倉時代の初期の作であるという鑑定結果に成ります。
つまり焼失後再び作られたのです。聖徳太子が創られたとされる「法隆寺」「四天王寺」も
焼失後、再び建立されました。「この時代誰が再建立したのか?」と考えると聖徳太子の身内としか考えられないのです。四方浄にて聖徳太子の生まれ変わりとして誕生したとすれば、仲田山般若院は、聖徳太子の孫になります。そしてその親は、聖徳太子の御子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)になります。さらに的場・四方浄風土記には、山背大兄王は世代を超えて存在し続ける利他行の集団、「行基」の生みの親であることが記されております。

「日本書紀」では、民の為に一族郎党全て自害したとされる山背大兄王は、実は、本気で戦えば勝てる戦争をも民の為に避け、「行基」として一族郎党全て仏門に下り本人は、その道號(どうごう※導く者と言う意味)として伊平の地で活躍されておりました。



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