観音の里だより「法華経といだいら観音の里の観音菩薩」

本来、馬頭観音は、憤怒の顔立ちをしておられます。しかし、いだいら観音の里の馬頭観音像は、仏教の象徴であります蓮の花を懐に抱き微笑んでおられます。この姿の馬頭観音像は、日本では、「いだいら観音の里」にしか観られません。そして像の脇には「観音講中主願」と書かれております。観音様をお慕いしている一同の主願とは、いったい何なのでしょうか?そこに微笑の謎が隠されております。
観音の里だより「法華経といだいら観音の里の観音菩薩」


仏教は、誰でも真に利他行(人の為にする行い)を行うことにより、自我が無くなり、聖者しか到達されないと思われた「空(くう)」或いは、清い心を得ることができるとされております。千手観音像の千の手は、人に差し伸べる姿を現しております。
観音の里だより「法華経といだいら観音の里の観音菩薩」


「法華経」の中では、これを菩薩行をとしております。そして心から湧き出る微笑(作り笑いではありません)を絶やさぬ柔和な姿は、菩薩行の最終的に到達した姿だとしております。

そんな菩薩達によりお互い助け合う「和」ができます。「いだいら観音の里」十一面観音像は、仏教が目指す理想の国を現しております。
そしてそのことは「誰もかれもが救われ、満ちたりた心境」を得ることに繋がります。この満ちたりた心境こそ、いだいら観音の里、馬頭観音の微笑の表情です。
奈良斑鳩の里の法隆寺 中宮寺 にあります弥勒菩薩半跏思惟像の微笑、これも「いだいら
観音の里」の微笑の馬頭観音菩薩像と同様
観音の里だより「法華経といだいら観音の里の観音菩薩」


誰もかれもが救われ、満ちたりている表情、心から湧き出る微笑(作り笑いではありません)を絶やさぬ柔和な姿なのです。
さらに「法華経」では、無常、無相を解いております。時と伴に環境は著しく変化します。無常なのです。「確実に、こうだ!」と思っていた内容が、環境が変化して「そうでは無かった」事に気が付きます。これが無相です。「法華経」では、これを「実相」と言い、妄想より生じるとされます。ですから、まずは、素直な気持ちを得、妄想を懺悔して観音菩薩に御願いすれば、仏の功徳を得られるとされております。



同じカテゴリー(観音の里だより)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

写真一覧をみる

削除
観音の里だより「法華経といだいら観音の里の観音菩薩」
    コメント(0)