観音の里だより「行基(ぎょうき)の都その1 仏教集団の頭目は、山背大兄王」

いだいら観音の里にあります仏坂の峠を越えた北側、四方浄(旧 仲田の里)という処に行基堂があり、行基発祥の縁起書が掛けられております。
観音の里だより「行基(ぎょうき)の都その1 仏教集団の頭目は、山背大兄王」
観音の里だより「行基(ぎょうき)の都その1 仏教集団の頭目は、山背大兄王」


以下縁起書の重要な処を抜粋して書きますと
「・・・行基は、西暦668年に仲田の里に聖徳太子の生まれ変わりとして出生し、その啼声は、法華の妙音の如くであったという。その後、三洲析福寺の上人に引き取られ15才まで養育され18才にて仲田の里に一家を建て、仲田山般若院と号し、村人に仏教を布教するために、自ら仏像を刻み四方(川名、伊平、別所、的場)に安置し、四方浄土の霊地なりと字
義を以て仲田の里を四方浄と改めた。・・・」と在ります。
そして行基堂の中には、中央に、仏教により国を治めると言う意味の蓮の花を持ち、威厳高き人物の像が安置され、
観音の里だより「行基(ぎょうき)の都その1 仏教集団の頭目は、山背大兄王」


王位継承の掛け軸とされる3つの掛け軸が納められております。
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観音の里だより「行基(ぎょうき)の都その1 仏教集団の頭目は、山背大兄王」


 行基とは利他行を行う集団という意味であり、その集団の組織は、道號(どうごう)と隋號(ずいごう)の大きく二つに分かれております。道號(どうごう)とは、導く者と言う意味で組織のトップです。隋號(ずいごう)とは、従う者達です。数多くの隋號(ずいごう)達が、日本各地で仏教を布教し、開墾、仏像や寺の建立、水田の指導も行いました。ちなみに開拓を行う隋號(ずいごう)の人達は、隋墾坊(ずいこんぼう)と呼ばれておりました。
    浜松市北区引佐町四方淨霧山地区にある隋墾坊の墓を隋墾坊大権現として祀る屋代
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今も日本各地で伝説として残る行基、建立の寺の数々、仏像の数々は、隋號(ずいごう)達によるものであると考えます。しかも「行基」と言う組織は世代を超えて存在し続けているのです。その事が又、「行基」と言う集団を大変分かり難くしております。その件は後で御説明させていただきます。しかし全国に行基が行ったとされる伝説の数々は、計り知れず、国王級の財力、権力、技術力がなければとても達成できるものではありません。
そんな財力、権力、技術力を持った道號(どうごう)は誰かと探るとき、上記、縁起書を観ると、西暦668年に仲田の里に聖徳太子の生まれ変わりとあります。と言う事は、この生まれた子は、聖徳太子の孫になります。
               奈良法隆寺 聖徳太子坐像
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18才の時、仲田山般若院と名乗りました。この名は、戒名です。院とは、当時、国王のみ許される諡号(しごう)でした。「法華経」解釈では、仲田山とは、仲田の里で生まれた山人(やまと)と言う意味になります。そして般若院の般若とは、宇宙の真理である智慧を表し、その智慧により衆生(しゅうじょう)を仏道に導く人と言う意味になります。「法華経」では、大乗法という教えになります。
そしてその父親は、聖徳太子の御子息であります山背大兄王(やましろのおおえのおう)になります。行基堂に安置されております人物の像や、王位継承の掛け軸は、山背大兄王であることの証拠であると考えます。奈良法隆寺に安置されてあります聖徳太子坐像の冠と、
奈良時代以前の掛け軸であると確認された王位継承の3つ掛け軸の内の如来が、持っている冠の形が、一致しているからです。この3つの掛け軸の意味は、仏教で悟りを開いた佛(人)に対して、如来が仏教国の王である大王の位を授け、そして「頼みましたよ!」と去って行く。と言うものです。
聖徳太子以前の国王は、仏教国王であると言う意味の大王という称号を使っておりました。聖徳太子の戒名は大王天皇という称号を使いました。仏教国王の中で最も偉大な王と言う意味です。聖徳太子一族は、大和朝廷の国王を世襲する一族です。本来、ヤマトとは、山人と書きます。大和(ヤマト)とは山人(ヤマト)の充て字です。「大和」とは、「和(わ)」国が勢力を増し大きくなった状態を表し、そして山人(ヤマト)が「和(わ)」国の民であることを現しております。ちなみに海で儒教を信条として暮らし、亀の甲羅を焼きその亀裂で未来を占っていた一族を海(うみ)の人と書いて海人(あま)と称しておりました。伊勢の中臣氏等です。古代、日本には山の神、海の神、が居りました。そしてそれらを信仰している一族がそれぞれ山人であり海人なのです。ですから山人(ヤマト)を背負っている大王が、それが山背(やましろ)大兄王なのです。
何故、「和(わ)」国が、山人(ヤマト)なのか、と申しますと日本仏教の祖であります役行者こと役 小角(えんのおずの)西暦634年 - 706年に辿り着くのです。山人(ヤマト)の男達は、山伏(やまぶし)となって、
                   山伏
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             僧侶の先頭を歩く山伏
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山で、滝に打たれたり、禅定したり、と修業を重ね六根(鼻、眼、耳、舌、意、身体)清浄を行いました。仏教でいう処の悟りを得て、涅槃(ねはん)の心境を得る為に行います。故に山人(ヤマト)なのです。

山背大兄王子一族は、政敵にあって、全て自害されたと日本書紀にはありますが、しかしその一族の墓さえ分かりません。そんなことは考えられないことなのです。ここでも、歴史は塗り替えされているのです。
戦えば完全に勝てる戦(いくさ)ではありましたが、山背大兄王子は、民の為、中臣氏との戦いを避けて突如、奈良県斑鳩の里を離れ、東国 遠江国(とうとうみこく)に在り、東西南北の交通の要所であります「いだいら観音の里」を中心とした地域に都を移し、聖徳太子が極めた「法華経」の教えを、利他行の集団 行基(ぎょうき)として「法華経」の説く処の般若(智慧)を実行したのです。山背大兄王子、「いだいら観音の里」に来られた当時17、18歳の頃であると「渋川火おどり 詞集」には記されております。
                 遠州渋川 火踊り詞集
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しかしその都は、約90年という短いもので、山背大兄王(戒名 古瀧山 龍王院)が、62歳でお亡くなりになられた後、御子息の仲田山般若院が大和国王の時、西暦729年、伊勢の権力者、中臣氏により、この地は、火攻めに合い、滅亡してしまいまいた。しかも蝦夷地(えぞち)とされ、歴史からも消されてしまいました。そして歴史は勝った者の記録、日本書紀と古事記として残されました。ただ仲田山般若院が行った「行基(ぎょうき)」としての利他行が、時の権力者に認められ西暦749年行基(ぎょうき)大菩薩の称芳が与えられその年の2月2日、先祖代々の土地であります現在の大阪府和泉市にて82年の生涯を終えました。



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