観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」

日本書紀によると大化の改新(たいかのかいしん)とは、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革であり、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自害させ、蘇我氏本宗家を滅ぼしたとされる内容から始まります。
          蘇我入鹿(そがのいるか)が謀殺されたとされる乙巳の変(いっしのへん)
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


天皇の宮を飛鳥から奈良に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされます。
しかし、蘇我氏総本家なるものが存在して居りませんでした。歴史は常に勝利した者の記録です。勝利者以前の記録を全て消滅して、自分たちの都合の良い記録を創ります。
その歴史の記録が「古事記」と「日本書紀」です。古代を研究している歴史家は、古文書の解析による歴史把握から始まります。そもそも、その基となっている「古事記」「日本書紀」の内容が事実とは全く違う内容であるならば、一生を掛けて研究されても真実の姿には辿り着けないのです。私の歴史は、科学者の解く歴史です。例えば浜松市北区引佐町四方浄に残る行基伝説の内容で、良く分からない内容に遭遇した時、伝説に基づいて科学者が常に用いている仮説を立てます。この仮説は、幾つか立てますがその中で、多くの状況が一致する仮説を導き出します。そして、この内容でしか考えられないとする仮説を真実とします。後は、その仮説を証明するあらゆる資料を付け足して行きます。又いくら巧妙に創られた歴史内容で有っても、必ず手掛かりになるキーポイントが存在します。そのキーポイントを探し出します。古代の歴史の真実を紐解くカギは、漢字でした。例えば、利他行の集団は、利他行基と書き、縮めて行基です。誰彼も救われると言う意味の救(ひゃっかさいきゅう)は、縮めて百済(くだら)です。中臣一族の長男であると言う意味の大兄王子は、縮めて中大兄王子(なかのおおえのおうじ)です。大兄とは、兄弟の中で大きいと言う意味で長男を現しております。この様に古代では、目的や名前にその内容を現す漢字を使い、その漢字を或いは縮めて表現しております。
では、蘇我氏の蘇我(そが)とは、何を意味しているのか?と言う事ですが、
祖(そしゅうわがそ)を意味しており、その内容を縮めて表現しております。蘇州とは、中国蘇州を意味し呉国を現しております。この仮説は遠州渋川「ひおんどり」「詞(ことば)章集」の四節の四季の冬・嶽に降る雪の章に記しております内容に基づきます。
                         遠州渋川 火踊り詞集
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


「北は冬の四季なれば~。あの龍王が、蘇我嶽に降る雪、あの雪深き時なればなぁー。がらりと理里有楽や、この珍が合さる子へ」です。この詞(ことば)の内容は、龍王院が、蘇我嶽で亡くなられて暫くすると、中臣一族の龍王院の御子息の般若院に対する態度が、がらりと変わった。と言う意味ですが、この詞の中の蘇我嶽の表現に重要な内容が隠されておりました。それらが分かると、歴史が創り替えられた古文書「日本書紀」の内容が芋蔓式(いもづるしき)に観えてまいります。
蘇我稲目(そがのいなめ)とは、祖水(そしゅうわがそすいとうとうもく)を縮めて現します。この意味する処は、中国呉国を祖にする一族で水田稲作を持ち込んだ頭領である。と言う内容になります。
蘇我馬子(そがのうまこ)とは、蘇我戸皇(そがうまやどのみこ)を縮めて現しております。聖徳太子(しょうとくたいし)の事です。
                       法隆寺に在る聖徳太子坐像
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


蘇我蝦夷(そがのえみし)とは、蝦夷(えぞ)地に居た人物を現します。当時、いだいら観音の里がある遠州地域は、蝦夷(えぞ)地と言われておりました。つまり山背大兄王(やましろのおおえのおう)の事です。
                     山背大兄王(戒名 古瀧山龍王院)
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


                   遠州渋川に残る古瀧山龍王院の住居跡
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


蘇我入鹿(そがのいるか)とは、仲田山般若院(なかだやまはんにゃいん)の事です。
                      行基菩薩坐像(仲田山 般若院像)
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


入鹿とは、入京した人を表しております。入京とは地方から都に入ることです。仲田山般若院が、61歳の時、行基の都、当時、蝦夷地(えぞち)とされる浜松市北区引佐町北区に在った都の西暦729年に消滅後、晩年75歳の時の西暦743年、聖武天皇から勧進の依頼により、奈良に入り、行基集団により東大寺大仏殿を建立を始めました。
         浜松市北区引佐町四方淨に在る仲田山般若院が生まれたとされる行基堂
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             行基(仲田山般若院)が造ったとされる奈良 東大寺大仏殿
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


そして、その都の姿が鹿(しか)なのです。鹿(しか)とは奈良に在る鹿嶋神社(かしまじんじゃ)を示しております。
                           奈良 鹿島神社
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


つまり、入京した都は、かつての聖徳太子が建立した飛鳥斑鳩の里の法隆寺ではなくて、中臣・藤原氏が氏神とする「武甕槌神」を祀る奈良鹿嶋神社に成った事を示しております。
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


実際に日本書紀には、西暦670年に「法隆寺」は、屋余すとこなく焼失したとあります。
                   飛鳥 斑鳩(いかるが)の里に在る法隆寺
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また古瀧山龍王院が、西暦686年に御亡くなられた直後、西暦690年には、「四天王寺」も焼失したとあります。
                             四天王寺
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


この時期、西暦670年~西暦729年に掛けて中臣氏による廃仏毀釈の政策があったと考えます。中臣氏は、儒教による天皇中央集権国家を目指しました。儒教とは、東周春秋時代、魯の孔子によって思想・信仰が体系化されたもので『詩』『書』『礼』『楽』『』『春秋』といった中国周の書物を六経として儒家の経典とし、中国周国の文王、武王が行った政治を理想としております。
易経』又は『卜経』とは、中臣氏が行っていた、火で焼いた後、動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から未来を占うものです。
しかし、身内同士の内乱は、治まらず、人心は離れて行ってしまいました。そんな状況の中、再び仏教に活路を求めたと考えます。
そして1100年の時を経て、廃仏毀釈政策を行い、完全に、儒教にて、八百万の神である天皇による中央集権国家が誕生したのは、明治~昭和終戦までの時代でした。

中臣・藤原氏が氏神とする「武甕槌神」の甕槌(かめずち)とは、嘗て使っていた土器を現しております。
紀元前、弥生時代の始め、中国周王朝の武王を祖とし、『卜経』にて未来を占い、儒教で国を治めていた中国燕(えん)国は、朝鮮半島を治め、そして日本を侵略します。その燕国の末裔である海人一族の領土であった日本の地が、その後、百済(くだら)国により攻略され仏教国の大和国へ、そして再び海人一族が、治める様になり、八百万の神の世界に戻った事を意味しております。燕国は、紀元前222年、が秦国によって滅亡しております。
観音の里だより「そして大化の改新は、創られた。」


この内容は古事記の神話(しんわ)の中で「天(海人)岩戸(あまのいわと)」として語られております。



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