観音の里だより「生きる。~伊平の史話と伝説(池田利喜男 著)より~」

小学生の私は、劇団たんぽぽの演じた劇を真剣に見ておりました。そして今も胸の奥に刻まれた当時の感動をはっきり覚えております。劇団たんぽぽ、なんと素晴らしい劇団なのでしょうか.

観音の里だより「生きる。~伊平の史話と伝説(池田利喜男 著)より~」



山下みゑは、大阪から四日市に辿り着くと、海岸の松林に向かう。追い詰められた人生の最後の場所は、せめて海の見える場所にしたかった。きれいに死にたいと娘心に思ったのである。『さようなら』・・・・・用意してきた白い粒を一気に口に放り込んだ。波の音が、風の音が、やがて消えていく・・・・。何時間かたって気が付いた時は、病院のベッドの上だった。倒れているのを発見され、病院へ担ぎ込まれたのだ。
 
(世界一の不良に!)

「大阪からどうして四日市まで来られたのか、乗り物の記憶がありません。後で訪ねたが、どの松林かはっきりしなかった。ああいう時は狂乱状態なんですねえ。ベッドで目を開けると、母の泣いた顔があった・・・」
 劇団たんぽぽのおふくろさん、小百合葉子(さゆり・ようこ)は、十八歳の時、自分が演じた事件をこんなふうに話した。山下みゑは、小百合の本名である。
 みゑは、静岡県引佐郡都田村滝沢(現浜松市滝沢町)の旧家の十四代目 山下大平の娘として生まれた。母は、殿柿みわ、山一つ越した同郡伊平村川名(現引佐町川名)出身。二人は同居していたが、みわは、一人娘の為、殿柿家では「跡取りが、なくなる」と大平との婚姻を認めなかった。父の承認を受けたが「私の戸籍は、私生児扱いでした。」と彼女は、言う。
 みゑが、七歳の時、父が亡くなり、母は、みゑを残して実家へ帰ってしまった。「あなたは、ここで大きくなりなさい。母に付いて来れば、山下家の財産は無くなる」と言う。母がいなくなると、恋しくなり、先祖の位牌を背負って、ヒグラシの鳴く四キロの山道を母のもとへ歩いて行った。
 母と暮らし、川名小から浜松実科高等女学校(現西遠女子学園高)へ進み、寄宿舎へ入った。三年になって教師になりたいと思い、担任に相談すると「私生児は、女子師範学校へ入れない」と言う。初めて聞いたショッキングな話だけに、血相を変えたみゑは、校長岡本巌に退学を申し出る。そして「やめて、日本一の不良になってやる!」と毒づいた。
 岡本は、笑いながら「それも悪くないが、中退では日本一の不良に成れぬ。卒業しておかないと、日本一は無理だ!日本一などとケチなことを言わず、世界一の不良に成ってみてはどうかね。私が応援する」・・・。これには、みゑも一本とられた。
 大正七年に無時卒業。そのころ、母たちは、浜松市内に住み、みゑは、花嫁就業に娘らしい日々を送る。見合いをして、話がまとまりかけた青年の家まで行くと「山下の家は、悪い病気の血統だから、止めた方がいい」との話が耳に入る。血が、体から音を立てて引く思いで逃げ帰った。
 縁談が、こじれたのを悲観、大阪の友達と連絡をとり、家を出た。運よく大阪市役所へ勤めることができたが、一年後に本採用の話が出て、市長に呼ばれる。「あなたは、よく勤めてくれるが、どうも戸籍がねえ」・・・
また、私生児で、ひっかかった。翌日から市役所へは行かない。沖縄へ行こうと思い、楽士として那覇へ行く人に連れて行ってもらうことになった。「その人と出港前、同じ宿に泊まることとなる。すると、男は、結婚してくれ!と迫った。びっくりして逃げ出し、何処かで死のうと、ふらりと四日市へ行ったわけ」・・・・そして自殺未遂。
 元気になり、病院の窓から見ると、庭にタンポポが、咲いている。人が踏んで通るが、枯れない。根元を棒で掘ってみると、太い根が大地に深く伸びていた。真っ直ぐな茎。小さな花びらが集団となって丸い花になっている。「私はこの花から、強くたくましく生きること。人は、集団の中で仲良く生きなければならないことを教えられた」・・・話がうまくできているが、自己開眼したことだけは、確かだ。
 教師になれないのなら、演劇で子供達と一緒に歩もうと、演劇勉強の為、大正十三年春、上京する。身内の明大生を頼って・・・。
「女学生時代、浜松で見た川上貞奴の児童劇の印象が、大いに影響した。下宿して明大の駿台演劇学会へ入り、東大と青山学院の劇団ネオに参加した。母は、芝居をしていると知って、先祖様に申し訳ない。と勘当の手紙をよこした。お蔭で月三十五円の仕送りも止まり、生活に困った。それで、カフェーの女給になり、昼は、演劇、夜は女給のアルバイト・・・」
 やがて創作座に参加、芸術小劇場、前進座、演技座などの舞台に立ち、松竹蒲田など三社の映画に出演。万葉座など主になってやった。浅草でロッパ、無声と舞台に立ったことも、戦争が激しくなると、十八年秋、長野県篠ノ井町(現長野市)に疎開。篠ノ井には、数年前に結婚したHが疎開していた。(Hとは、戦後に離婚)戦時中は青年演劇、人形劇の指導をしていた。

(子供らの大歓迎)

 戦争がすむと、仲間と信濃芸術座を結成、二十一年末、劇団たんぽぽと改組、翌年春、
篠ノ井劇場で、団員約四十人と旗揚げ公演した。初めの頃の出し物は、S・ウォーカー作
「そら豆の煮えるまで」、山本有三作「海彦山彦」、小百合作「かくれんぼ」など。
観音の里だより「生きる。~伊平の史話と伝説(池田利喜男 著)より~」


東、北信の学校を皮切りに公演、年を追って東京、岐阜、神奈川、静岡、愛知とリュックサックを背負って出掛けた。最も堪(こた)えたのは食糧難で、昼は、児童劇、夜は食べさせてもらうため、新劇をやった。冬はリンゴの袋張りなどの内職、化粧品の行商もし、春になると、公演に戻る生活。暇をみては、イナゴ採り、野草摘みもした。
 生活は、苦しかったが、行く先々で子供達の大歓迎のアラシを受けた。百合子のふんする少年が、悪役と立ち回る場面では、興奮した子らが舞台に押しかけ「ジジイ、引っ込め!」の大合唱。なだめるのに苦労する。
 最初の頃は少年院などを出た子に何人か団員になった。うわさが広まると「子供を預かってほしい」という手紙が殺到。芝居のシの字も知らぬ子を演技指導する小百合の苦労も大変。
「笑って」と言うと「オラ、笑ったことねえので分からん。」カエルの役を割り当てた子は、冬だと言うのにカエルを探してきてにらめっこ。おふくろさんと呼ばれた小百合と団員の泣き笑いが、続いた。
 二十五年、本拠を松本市元魚町へ移り、三十三年春、同市篠ヶ瀬町に大きな道場を立てて引っ越す。ところが、五年後に全焼、振出しに戻った。小百合は「道場は焼けたが、たんぽぽは、焼けず」と名セリフを吐いて再建に乗り出す。見舞いの金品は、全国から寄せられ、浜松市民好意で道場再建激励公演が開かれた。
 この年十一月、本土復帰前の沖縄公演が、多くの人々の協力で実現、団員十五人が六か月間、沖縄で公演している。
 四十一年には北海道公演を始めた。明治百年記念の女優祭で小百合は、水谷八重子らと表彰された席へ、網走刑務所から祝電が、舞い込み、会場をわかせる。四十四年には、待望の全国縦断公演に成功。五十一年には、創立三十周年記念公演を浜松市民会館でやった。現在本部謙仮道場は浜松市東区子安町にある。

(数々の賞に輝く)

徒歩だった団員の足も三十年にはオート三輪、三十五年には寄付のマイクロバスに代わり、現在はマイクロバス2台。北海道と長野で公演中の団員は二十七人。俳優の年長は、江波次郎(57才)、女優の年長は森金純子(55才)、小百合が養子にしたのは山下保(55才)である。彼らは間もなく浜松へ帰って来ると、新しい出し物の稽古が、始まるのだ。団員は、全部で約40人いる。
創立以来の公演は、学校を対象に二万一千回を上回った。教育に合わせた夢のある劇ばかりだ。たんぽぽが、春に種子をまきちらすように、全国の子らに美しい心のタネを蒔いてきた。藍綬褒章、吉川英治賞受賞。文化丁表彰(団として)。そして、この六月久留島武彦文化賞に輝いた小百合なのだ。
観音の里だより「生きる。~伊平の史話と伝説(池田利喜男 著)より~」


彼女は私生児とみくだされた悲しさを跳ね返すように、六十年間劇一筋に打ち込んだ。女の一心だが、それ故にいつまでも若々しく、すばらしいオールドレディーの日々。
「私が元気でやれるのは、全国で待つ小さな手の大きな拍手。劇を見る子供の態度は真剣で、今も昔も変わりません」と言う。当面の夢は、団員の宿舎と道場を建てること・・・秋風とともに北海道へ飛ぶ。「タンポポのように美しく、たくましい人になって・・・」と、前座でブツのを楽しみに。



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