いだいら観音の里に「ある和讃 その(1)つづき3」

このプログは、9月26日(月)からのプログのつづきを書いております。
「行基が納める仏教の都(パラダイスの地)」がどうして無くなったのか?
という事ですが、その前に伊平 仏坂にあります「十一面観音像」の話をしなければ
なりません。
いだいら観音の里に「ある和讃 その(1)つづき3」


 引佐町四方浄に伝わる「行基」の縁起書によりますと
 「四方浄で生まれたとされる仲田般若院は、その後三洲新福寺の上人に引き取られ十五才まで養育され、十八才(西暦706年)にて村人に仏教を布教するために、四方(東方川名に薬師如来、西方的場に阿弥陀如来、北方別所に釈迦如来、南方伊平に十一面観音)に安置し中田の里を、四方浄と改めた。」とあります。
この十一面観音は、確かに西暦706年仲田般若院により伊平、仏坂の地に創られました。しかし、その時の仏像は焼失して、現在残る仏像の創られた年代を鑑定していただきますと、平安時代の後期から鎌倉時代の初期であるという鑑定結果に成ります。
 そこで、思い出されますのは、聖徳太子が造られたとされます「法隆寺」と「四天王寺」
のことです。日本書紀には、西暦670年に「法隆寺」は、屋余すとこなく焼失したとあります。また西暦690年には、「四天王寺」も焼失しました。そして西暦710年に伊平
仏坂にあります十一面観音像も焼失したのでは、と思っております。
 西暦710年とは、「伊勢神宮」が設立され、「日本書紀」が誕生した年です。
私は、この一連の寺院や仏像の焼失と、「明治時代の排仏毀釈」と重ねます。
明治時代、排仏毀釈政策により、仏教の町であったものが、一瞬にして無くなった事実を多く知っているからです。引佐町渋川の北側にあります。新城市阿寺(あでら)の町もその一つでした。また「明治時代」とは、「日本書紀」を参考にしています。
そして、この十一面観音像の焼失と時を同じくして
「行基が納める仏教の都(パラダイスの地)」は、無くなったと思います。
では、「法隆寺」「四天王寺」そして「伊平 仏坂 十一面観音」らを、再構築していった者は誰か?

それは、代々続いている「行基」の人達であると思います。

  秋の月夜、皆さんを「いだいら観音の里」長興寺で至福の一時へと誘います!
10月15日(土)18:00開場 18:30開演 入場料¥3,000円
「秋宵 和歌うた」コンサートが「いだいら観音の里」禅寺 長興寺で行われます。
うたひとは、「早苗ネネ」さんです。
詳しくは、9月29日のプログ「コンサートのお知らせ」をご参考にしてください。


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