いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」

和讃とは、「古代、この地がどんな、意味のある場所であつたか、またこれからすべき事柄」を今に伝える歌です。
いだいら観音の里にある和讃の中で3番目に取り上げるのは、
いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」
いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」
仏坂 竹馬寺にある和讃です。
1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、初山 宝林寺の当時の住職、法源禅師が創った
「重くてもかろく登れや仏坂 四方浄土を目の前に見て」
と言う歌です。
(もうじき、幸せの処が出現する。幸せの処を出現させることは、大変なことだが、さっさと行え。仏坂 十一面観音菩薩の様に。)
と言う意味です。









 


十一面観音像が、最初に創られたのは、奈良斑鳩の岡本にあります「法起寺(ほうきじ)」に置かれております西暦606年に聖徳太子が創られたとされる木造十一面観音菩薩立像です。
いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」


いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」
聖徳太子は政治をおこなうにあたり「政治理念」を十一面観音菩薩立像に込めました。
 十一面観音菩薩の左手にある蓮の葉が入っている壺は、清水(きよみず)を表します。そして頭の上には円を描くように十一人の顔です。
聖徳太子の「政治理念」とは、清い心と和をもって、誰もかれもが幸せになる国造りという意味になります。

(資本主義では、人の欲を刺激して、需要を拡大し富を生みます。日本はつい最近まで
一億総中流社会でした。富は皆に行き渡り、それはそれで成果があったと評価しますが、
幸せであったか!と考えますとそうでは無かったように思われます。
 聖徳太子の誰もかれもが幸せになる国造りの方法とは、欲を抑えて幸せになるという
考え方です。)
西暦622年、聖徳太子が御逝去される際、御子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対し、岡本の地にある宮を、改めて寺(古代では朝廷という意味)とすることを遺命したと伝えられております。しかし山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、その地では
成すことができませした。
 そして聖徳太子の生まれ変わりとして現在の四方浄で生まれたとされる
「仲田般若院」は、西暦706年引佐町伊平仏坂の地に聖徳太子と同じ政治理念が込められた十一面観音菩薩立像を造られました。
いだいら観音の里に「ある和讃 その(3)」

  秋の月夜、皆さんを「いだいら観音の里」長興寺で至福の一時へと誘います!
10月15日(土)18:00開場 18:30開演 入場料¥3,000円
「秋宵 和歌うた」コンサートが「いだいら観音の里」禅寺 長興寺で行われます。
うたひとは、「早苗ネネ」さんです。
詳しくは、9月29日のプログ「コンサートのお知らせ」をご参考にしてください。


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