いだいら観音の里に「古代 都が存在した」

西暦650~700年の約半世紀に伊平を中心とした地域に存在した都は、行基が治める仏教の都でした。※行基とは、利他行を行う集団と言う意味です。※利他行とは、他人を助ける行いをすることです。
初代 「行基(ぎょうき)」の中心人物である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、聖徳太子の御子息です。伊平に隣接した引佐町四方浄にある「行基堂(ぎょうきどう)」には、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の像と
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聖徳太子からの王位継承の三つの掛け軸が今も残っております。
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西暦622年、聖徳太子が御逝去される際、御子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対し、 奈良 斑鳩 岡本の地にある宮を、改めて寺(古代では朝廷という意味)とすることを遺命したと伝えられております。しかし山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、その地では
成すことができませした。海人一族(藤原家)との戦いを避けるべく東国の屯倉(みやけ)に都を移したのです。
西暦710年に藤原鎌足の二男、藤原不比等(ふひと)により創られた日本書紀には、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、西暦644年蘇我入鹿に襲撃された際に
「民を戦いで傷つけ損なうことは望まない」という理由で犠牲的精神を持つ故に

 是をもって、吾が一つの身をば、入鹿に賜う

と宣言した後、一族全てそろって自害したとあります。しかしながら、この歴史も又、勝利したものの歴史なのです
 実際には、新天地 伊平の地で「行基(ぎょうき)」として、聖徳太子が研究された大乗仏教の経典であります「法華経(はけきょう)」の中の「般若経(はんにゃきょう)」、そしてその中の「利他行(りたぎょう)」の教えを実行された方であると言えます。何故「利他行」の教えを実行したかと申しますと、仏教により誰もかれもが幸せになる国を目指していたからです。

  「この功徳力を持って遍く一切に及ぼし、我らと衆生(しゅうじょう)と皆共に仏道を成ぜん」 龍王院(山背大兄王)



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