同じ着物と思われるのに、何故か和服或いは呉服と呼ばれております。この謎を解くことにより行基の秘密や仏教伝来の由来を解くことができると考えます。
聖徳太子の御子息であります山背大兄王は、奈良斑鳩の里で政治を行っていた大和国の国王でしたが、新たなる新天地を求め東国の浜松市北区引佐町伊平に仏教の国「行基の都」を創ります。
大和国は、仏教により国を治める為、「般若経」の中の「法華経」を研究しておりました。
そして「法華経」の中の「利他行の教え」を実行に移した形が、「行基」と言われる集団でした。西暦658年、三月二十七日から、「行基」は、諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像を刻み経典を置かしむと同時に水田稲作の技術、農作業用の鉄鍬(てつくわ)等の鉄器、堤防や橋などの土木技術を伝えました。
大和国とは、弥生時代この国を統一した百済が、仏教により「和」を持って成す国を目指した「和」国が、大きくなった状態を意味します。百済の民は、元々は、中国蘇州で仏教により国を治めていた王国の民で、その国を追われ、新天地を求め朝鮮半島に突然、仏教により誰もかれも救われる国、○百○花○済○救の国を創りました。
中国蘇州は、古くは「呉」国と呼ばれておりました。「三国志」の「魏・呉・蜀」当時の孫権(そんけん)の「呉」ではなく、更に時代を遡り、「呉越同舟」時代の夫差(ふさ)王の「呉」です。「呉」国は長江(ちょうこう)流域に、紀元前12世紀、に中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の御子息長男の太伯(たいはく)と二男虞仲(ぐちょく)により始まり、紀元前473年、越(えつ)王の勾践(こうせん)により滅ばされた夫差(ふさ)王まで続きます。
蘇州は、周王朝滅亡後、紀元前514年に「呉」王 闔閭(こうりょ)が周囲25㎞の城壁を築いて「呉」国の都としたことに始まります。
この時代、蘇州には、現在世界遺産にもなっている美しい庭園がたくさん出来ました。
蘇州の庭園は、日本の寺院に観られる様な池が有りその周りに仏閣が立ち並んでおります。
また、この時代の中国は、諸家百花といわれ、数々の思想家が輩出した中で、諸国は、儒教、道教、仏教の内、どの思想が国造りに適しているかを模索しておりました。「呉」国は、仏教による国造りが、最も優れていると考え、その教えを実行して行く様になります。
彼らは、水田稲作、金属器、絹や綿織物等、世界でも有数の文明を持ち、中国最強の国となり繁栄しておりました。ところが、隣国の「越」王勾践との戦いに敗れ、敗戦民は殺されるか奴隷にされるという状況の中、「呉」国の民は、新たな新天地を朝鮮半島に求めることに成ります。
中国では、倭人(和人の蔑称)を「呉の太伯(たいはく)の子孫」とする説があり江戸時代の儒学者であり哲学者でもある林羅山(はやしらざん)らに支持されました。また日本側の伝承では、「呉」国夫差(ふさ)王の子孫が列島に渡来したという言い伝えがあります。
この説や伝承は間違えないと考えます。「呉」国の太伯(たいはく)を祖とする夫差(ふさ)王の子孫が朝鮮半島に「百済」という国を創り、「百済」は、この国に「和」国を創りました。
つまり「呉服」と「和服」は、同じ内容の着物です。
以上の様な経過から朝鮮半島に百済の国が設立されたのは、遅くても紀元前400年前後、列島に「和」国が設立されたのは、遅くても紀元前のことになります。弥生時代の始まりは、現在考えられているよりももっと早い時期になります。また大和国が近江(琵琶湖)と遠江(浜名湖)を国造りにおいて最も重視していたここと、かつて「呉」国が長江(ちょうこう)流域に造られた国であったこととは、無縁ではないと思われます。
ここで注目しなければならない重要な内容があります。インドで発祥した仏教は、シルクロードによって西域を経由して紀元前500前後には、中国蘇州にて、「般若教」として取り入れられ、その後新天地を迎える度に、より具体的な、仏教の教えに代わって行くことです。百済では、仏教により誰もかれも救われる国を目指します。その内容は、まだ漠然としております。和国では、「和」を成す国を目指します。より具体的な内容になります。そして引佐町伊平「行基の都」では、利他行をする国を目指します。最終的には、聖者しか到達されないと思われた「空(くう)」の境地は、「利他行(人の為に生きる行い)」をすれば誰でも到達できると言う教えに成りました。
この経緯を逆方向に考えますと仏教による国造りの姿が良く理解できます。「利他行」により「空(くう)」の境地を得た人達により、互いに助け合う「和」ができます。そのことは、「誰もかれもが救われる国」を創ることに成ります。
「空しく生きて満ち足りる」ことに仏教の境地が有ります。日本独自の文化であります華道、茶道、香道もこの境地を目指したものと言えます。
元々は、浜松市北区引佐町に古くから伝わる「行基」伝承の謎を解いておりました。その過程で、新たなる謎を解く必要性が生じ更に仮説を立て、その仮説の為の資料を参考にしながら歴史を紐解いてまいりました。まさか日本史、世界史の謎を解くことになるとは、まったく思ってもいませんでした。