観音の里だより「遠州渋川 右近次郎(おこのじろう)の悲劇、井伊亀之丞(直親)への刺客」

遠州渋川に住居を構えている今川家 地頭 大平右近次郎(おこのじろう)が井伊亀之丞への刺客として現れる背景は、今川家と井伊家の事情があります。
井伊氏と今川氏の確執は、南北朝の時代、後醍醐天皇率いる南朝と足利尊氏が擁した天皇率いる北朝の戦いの時代にまで遡る。
観音の里だより「遠州渋川 右近次郎(おこのじろう)の悲劇、井伊亀之丞(直親)への刺客」


南朝に味方した井伊氏は、後醍醐天皇の一子、宗良(むねなが)親王を擁し戦う、最後は三岳城に立て籠もり戦うが足利家の分家、今川勢等に攻められ落城し敗戦する。
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更に、戦国の世に成り、井伊直平は、尾張の国主斯波(しば)氏の力を借りて今川氏に一矢報いようとするが、これも今川氏に屈してしまう。直平は、娘を人質に差し出して恭順の意を示し、かろうじて滅亡を免れた。そして今川家に被官することになるが、それまでの今川家に対する経緯から、今川家は、井伊家の滅亡を望み、その代りの今川家に都合の良い、遠江を治める領主を探すこととなる。しかし井伊家を滅亡させることは、或いは反乱を含んでいることなので慎重に行うことが必要になる。
西暦1544年12月23日、謀反の疑いで井伊亀之丞(後の直親)の父で、直平の三男の直満と四男直義が、今川義元屋敷にて詰め腹を切らされ、直満の子 亀之丞をも殺害せよとの旨、義元より下知された。12月29日の夜に直満の家老、今村藤七郎は、密かに亀之丞を負い、井平(いだいら)山中(さんちゅう)黒田(くろだ)村迄落ち、亀之丞は、病死、今村藤七郎も自害と申し立て夜陰に乗じ、渋川東光院まで逃れた。(当時、井伊谷から渋川までの道のりは約16㎞と言われております。途中、伊平の仏坂を通り、仏坂に居られます念願成就の観音様、十一面観音菩薩には、井伊亀之丞の生還を当然のことではありますが、念願されたと思われます。)更に身の安全を確保する為、井伊家と所縁のある信州伊那郡市田村松源寺へ匿ってもらう手筈をつけて、秘密裏に行動をする。渋川大平村より坂田峠を越え信州伊那郡市田村へ向かおうとした最中、西暦1545年正月三日、引佐町渋川東光院 能仲和尚の案内で夜中に坂田峠にさしかかる時、今川家の地頭で弓の名手・大平右近次郎の的になりましたが逃げきりました。しかしその腕前は、秋ともなれば、ひらひら落ちる木の葉を的にして弓の稽古をしていて、風に舞う木の葉を狙っては、弓をひけば小さな葉っぱは、真ん中を射抜かれて落ちてくる。山へはいり鳥や獣を狙えば必ず仕留めて逃したことのない。見事な腕前であった。むしろ逃げ切れる方が奇跡に近いのです。彼の性格は、たくさんの獲物があるときには、村の衆に分けてやる欲のない、気のいい若侍であった。
               渋川大平  右近次郎の屋敷跡
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右近次郎の腕前からすればいとも簡単に射抜いたを思われる標的を撃ち逃した理由は、と考える時「僅か10歳の若子を手に掛けねばならない」と思う一瞬の躊躇ではなかったのか?・・・と考えます。殺し屋 右近次郎が真に殺し屋になれなかつた一面だと思うのです。或いはわざと撃ち逃したとさえ思われるのです。右近次郎の妻は、渋川細木撓の人にて右近次郎が亀之丞を撃ち損じた時、事の内容をあらかじめ察していた様に直ぐに機織(はたお)り中の布を断ち切って渋川大平(おおだいら)を去り細木撓に戻り尼になったと言われている。
西暦1555年、10年の月日が過ぎ、亀之丞改め直親となり伊那谷松源寺からの戻りの際、引佐町渋川に至り大平右近次郎を弓の名手として誘い出し、ついに岡保の屋処(やとこ)において彼を惨殺しました。
               右近次郎の惨殺場所 渋川岡保
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 その時の様子を言い伝えには、こう記しております。
年の瀬も押し迫り、雪がちらつく日。お城の御侍衆が鹿がりにやってきた。右近次郎は、その案内役にたっていた。右近次郎だけ赤い頭巾を被っていた。雪山の中でどこからでも赤い頭巾が良く見える。山奥へ入り込んで、右近次郎が谷間へ出た時、他の侍たちは待っていたとばかりに弓に矢をつがえた。「ほおーっ」とほら貝が鳴った。右近次郎は、何事かと振り向いた。そこへ四方八方から、矢が飛んできた。赤頭巾を目印に侍たちは射かけたのだった。
あっと言う間の出来事だった。いくつもの矢を受けて、右近次郎は、ばたりとその場に倒れた。すると侍たちは、水が引くように山を去っていった。その出来事は村中に直ぐに伝わった。村人達は、驚いた。「ええ人じゃったのに。」「あんな弓の名人をむざむざ殺すなんて。」
と言い合って右近次郎をねんごろに葬った。それから何年かしてその墓のあたりに、時折、赤い頭巾をかぶった蛇がちょろちょろと姿を見せる様になったという。
大平右近次郎の墓は、引佐町渋川大平と引佐町渋川細木撓の2ヶ所に存在して居ります。
しかも大平の墓の祠(ほこら)は、中を観ると祟(たた)ると言われておりまして、現在に至っても誰も中を見るものがおりません。
              引佐町渋川大平 右近次郎の墓
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              引佐町渋川細木撓 右近次郎の墓
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この記事へのコメント
私は鈴木哲君と同期生の老人です。昔からPC好きで、貴兄のブログ読者です。
先日故池田利喜男さんの事がありましたが、その実弟故 木下孝はやはり同期生ですが、昔は事業専念で話もしたこと有りません。今になって残念至極です。
 3年ほど前に哲君を頼って伊平を始めて訪問しました。
伊平は歴史と美しい自然に囲まれた遠州一番の地ですね。それ以来貴兄のBlogの読者です。
Posted by 中村 雄次 at 2020年04月30日 11:12
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