観音の里だより「井伊直親、井伊家復興の礎(いしずえ)」

井伊直親は、幼名を亀之丞と称しておりまして、井伊家当主直盛の一人娘、祐姫(後の井伊直虎)と共に将来は、井伊家の家督を継ぐ者とされておりました。父親の直満が謀反の疑いで詰め腹を切らされ、自分も、今川義元より「殺害せよ!」との下知がくだされます。
10年間、今川の手の届かない信州伊那郡市田村で身を隠しておりましたが、西暦1555年20歳になっておりました亀之丞は、成人して名を直親に改め、井伊谷に復帰致しました。復帰できた背景には、今川義元の上洛のおり、井伊家に戦力として働かせたいという思惑がありました。
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西暦1560年、織田信長との桶狭間の戦いにより、井伊家当主直盛(直虎の父)は、戦死したため、直親は、家督を継ぐ様になります。しかし、今川敗北により遠江における今川の勢力が衰退し、お家存続を考え、松平に通じる者、武田に通じる者、そして今川に通じる者と、遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、家老の小野但馬(たじま)の讒言(ざんげん)により松平元康(後の徳川家康)との内通を主君の今川氏真(うじざね)に疑われ、西暦1563年1月8日に疑いを晴らすべく、駿府今川屋敷まで出向く最中今川家の重臣・朝比奈泰朝に攻められ戦死しました。享年28歳。直親は、父 直満の様子を知っております。父親の無念を晴らすため、或いは短刀を懐に忍ばせ、主君 氏真と刺し違える覚悟であったのかもしれません。
直親が、井伊谷に復帰してから亡くなるまでの8年間どこで何をしていたのか、いろいろ書物を調べましたが、秘密裏の行動の為か、良く分かりません。
ただ、井伊直親の墓は、引佐町井伊谷 龍潭寺であるとされておりましたが、石野修著「遠州渋川の歴史」により、引佐町渋川 東光院に埋蔵されていたことが分かりました。渋川は、井伊家、北域の守りとして代々、渋川井伊氏が館を構えた重要な所です。
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                          渋川井伊氏 代々の墓

渋川からは、井伊谷三人衆の家柄の中でも当時、中心的な役割をしておりました鈴木重勝が居る愛知県新城市山吉田へは、一山越えれば直ぐの所です。母親は、重勝の娘、直親の祖父が居る山吉田は、目と鼻の先に在ります。(井伊谷三人衆とは、家康が遠州に出馬する時、今川氏従臣であった奥三河の鈴木重時(重勝の長男)・近藤康用・菅沼次郎右衛門忠久の三人が、家康に味方して道案内をしたことにより名付けられました。)
井伊直親は、直盛亡き後の3年間、引佐町渋川の地を拠点にして、或いは、これからの井伊家の行先を祖父 鈴木重勝から意見を伺い、家康と内通し、家康の遠州出馬に関わる謀をしていたようにも思われます。そうであれば、井伊家の復興の礎(いしずえ)を造ったのは、井伊直親であるとも言えます。



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