観音の里だより「いだいら観音の里にみる仏教の都の姿」

いだいら観音の里の滝清水 清水寺にあります和讃には、「滝清水は、古代 仏教の都を移した聖地であり、この地を絶やしてはならない」とあります。
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                      いだいら観音の里 滝清水 清水寺

では、具体的に仏教の都とはどんな姿なのでしょうか。飛鳥時代より遡り和国の時代、日本は、仏教により国を治めておりました。祭りごとを行う為政者は、徳を持っている者を最上とし、その為には、悟り(空)を得ることを目的に山伏と成り山へ籠っては、滝に打たれる等厳しい修行を行っておりました。縄文時代に行われていた古神道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰対象にしましたが、それらを包括する山岳信仰が習合し、更には、密教の要素も加味され修験道と言われる日本独自の仏教が育って行きました。
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                            磐座(いわくら)

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                           熊野山中にて修行中の山伏

当時、文明は、中国大陸から朝鮮半島を経てこの国に至ります。朝鮮半島の新羅は、山陰の出雲を中心にこの国を治めておりました。そんな状況の中、弥生時代この国を統一したのは、仏教により「誰もかれも救われる国」を目指した百済でした。熊本(光り輝く本)を中心に九州を平定した百済は、瀬戸内海を通って四国香川に至り、周辺の地域を平定しながら和泉国(現 大阪府 和泉市)に辿り着きます。そこを拠点にして近畿、出雲を平定し「和」国を成立致します。「和」国とは、朝鮮半島の百済が、仏教により「和」を持って成す国を目指したものでした。(和国は、西暦23年には、既に応神大王により成立されております。何故ならば、中国後漢時代の王、光武帝(こうぶてい)により倭(和)に金印が送られているからです。その金印は、現在国宝に指定されております。倭国とは、和国の蔑称です)
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                               国宝の金印

「和」国成立当時、百済は、朝鮮半島において強大な勢力を維持しておりまして和国は、百済の属国という位置関係でした。
朝鮮半島では、しだいに北から高句麗が勢力を増し、百済は、南へと退いた時期、西暦476年、首都を「熊津」(光輝く重要な処)とし、「和」国においては「熊野」(野(田舎)にして光り輝く処)と致しました。熊野古道へは大阪府 和泉市から続いております。つまり「熊野」は「和」国の聖地なのです。ちなみに「熊襲(くまそ)」と言われる大和朝廷に反対する勢力がありましたが「熊」とは、光り輝く地を意味し「百済国」の別の表現なのです。「大和」とは他国を平定して「和」国の勢力が大きくなった国を言います。「大和」の祭りごとを司る場所は、奈良 斑鳩の里で、為政者として或いは山伏になって心を清める聖地が「熊野」なのです。仏教の都とは、人を治める場所と心を清める場所、この二つがセットで都と言います。既に朝鮮半島を逃れ和国、「大和」に都を移していた百済は、西暦643年、今度は海人一族(天皇家の始祖)に追われて、東国の屯倉(みやけ)の地に都を移します。
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                      細江町油田の屯倉(みやけ)水神社

(海人一族は、縄文時代、海洋を中心に生活していた元々この国に居た一族で、百済侵攻の際には百済に従い、それまで信仰していた海の神(古神道)から仏教を取り入れようと努めた一族でしたが、次第に勢力を強め「和」国王と強制的に婚姻関係を結ぼうと迫って来ました。そんな内容が紀州 道成寺の逸話には、書かれております。)それが行基(利他行をする者の集団)の都「いだいら観音の里」です。「大和」は、近江国(琵琶湖)と遠江(浜名湖)を国造りにおいて最も重要な場所と考えておりました。遠江国において南北東西の道が交わる交通の要所、それが引佐町伊平(川名、東西黒田、兎荷を含む)から引佐町渋川など引佐町北域なのです。
引佐町四方浄には、行基(ぎょうき)産湯の池があり、熊野三山が祭られております。
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熊野三山は、熊野本宮には阿弥陀如来、熊野新宮には薬師如来、熊野那智大社には千手観音が主祭神とされております。古来、それらを総称して熊野権現とされておりました。また、百済が、四国の香川に拠点を構えた時、琴平山の山岳信仰と修経道が習合した神が、金毘羅権現です。権現とは日本の古神道の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたとするもので、本地垂迹思想による神号です。「権」という文字は、「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示します。現在、神道で祭られております熊野神社、稲荷神社、金毘羅神社、そして秋葉神社は、本来、仏教で祭られるのが正しいのです。江戸時代の禅僧、白隠(はくいん)禅師(西暦1685~1768)は仏教の布教に「秋葉山大権現」と「金毘羅山大権現」の書を持ち歩き、セットで使われております。
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                              白隠禅師の書

また豊川稲荷は、妙厳寺(みょうごんじ)と言う曹洞宗の寺院です。
引佐町渋川の北に位置する山を一つ越したところに、百済国を別の表現で表す「熊(くんま)」という地域が有り、更にその北には秋葉山大権現がある山伏を表す天狗の里があります。
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                         天狗の里にある秋葉山表参道

「いだいら観音の里」の滝清水に移した仏教の都とは、人を治める処を「いだいら観音の里」とし「心を清める処」は引佐町「渋川」より通じる「熊」そして「秋葉山」であったと思われます。何故「いだいら観音の里」が人を治める場所かと言いますと、この地には十一面観音菩薩があるからです。百済は、仏教により「和」を成す国を目指して祭りごとを行いました。「和」国の政治の象徴が十一面観音菩薩であり、清い心を持って共に生きることを表しております。



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