観音の里だより「井伊家 忠義な家老 小野和泉守」

地元では、井伊家 家老 小野和泉守の話題を持ち出すときには、誰しも井伊家を滅亡の寸前にまで追い込んだ張本人として、悪い印象を抱いております。小野和泉守の今川義元へ讒言により井伊直親の父、直満と叔父の直義が詰め腹を切らされたと思っているからです。
その時の経緯は、と申しますと甲斐の国 武田晴信(信玄)は、父の甲斐国守護 武田信虎が、娘の嫁ぎ先、駿河 今川義元のもとに軽い旅装で出かけた時、国境に兵を止めて信虎が甲斐国に戻るのを阻止し追放してしまいました。西暦1541年6月14日晴信は家督を継ぎ甲斐国主守護となりましたが、その年に晴信の軍が信濃を席巻して、その手先が天竜川添いに南進を始め、早くも井伊谷の北側に姿を見せ始めたと言うのです。
観音の里だより「井伊家 忠義な家老 小野和泉守」


                         甲斐の武田晴信(信玄)

武田侵攻があまりにも早く、当時この地域は今川の強力な勢力支配の範囲の中での出来事なので信じがたいのですが、井伊直平(直親の祖父)の子直満(直親の父)と直義兄弟は父直平の命令で軍を動かし、侵入して来た武田氏の先方の兵と小競り合いになりました。
その事はいずれ今川に知れる内容ですので、直満と直義兄弟の防衛戦の過程に不安を感じた直盛の家老小野和泉守は、今川家に知られる前に早速駿府城の今川義元のもとに駆けつけてこの事を報告しました。「遠州渋川の歴史」の著者 石野 修氏は、小野和泉守が今川義元に報告したことをこのように解釈をされております。「このことは、遠江国守護でもある今川義元に、国境の守備を預かる井伊家の家老としては当然の事で、井伊直平と直満と直義 親兄弟としては、事が遠江国の重大事であって国主の命なくして、たとえ防衛の為とは云え、直ちに状況を報告しその指揮に従うべきであった。」
小野和泉守は、井伊家存続の為に今川義元に武田軍が井伊谷の北側に侵入して、軍を動かさねばならなかった状況を報告しているのです。非は、井伊直平、井伊直満と直義、親兄弟の軽挙妄動に在り、井伊家に忠義な小野和泉守であると言われるのです。
観音の里だより「井伊家 忠義な家老 小野和泉守」


                     引佐町川名向山にある井伊直平の墓

(以下 著書 「遠州渋川の歴史」に拠ります。)
私謀に兵を動かした罪は大きく、とかく長期にわたり今川氏の最も敬遠していた斯波氏のもとで、反今川的態度をとって来た井伊氏に対する今川の処置は、直ちに直満・直義兄弟の召喚となりましたが、この時点では、今川義元は、この二人の処置に苦慮しておりました。西暦1544年12月12日 井伊直満と直義兄弟が、駿府に連行されて不安な年末を迎えていた井伊谷に、三河野田城(愛知県新城市)より途中井伊彦三郎ら45人の侍の迎えをうけ、国境を越えて遠州に入り、伊平の下で使僧の差出す樽肴(たるざかな)の接待を受け、午後10時頃やっと井伊谷に到着した客人がありました。その客人とは連歌師 谷宗牧(たにそうぼく)です。彼は、応仁の乱後の京都、近江・尾張・三河・遠江・駿河・相模・武蔵江戸まで、東海道を逸れて寄り道をしながら、戦国期の混乱の中、敵味方双方の営中に招かれながら、魚が水の中を悠々と泳ぐ様に、渡り歩いた稀有(けう)の旅行者です。当時このような漂泊詩人は、情報の伝達者、スパイの様な者でした。
その宗牧は、井伊直盛の家老小野和泉邸に二泊し、都田を経て曳馬城一泊、見付一泊、島田一泊、12月17日に駿河の宿に落ち着きました。そして今川氏に便宜をはかり、何かと問題を起こして、今川氏にとって札付(ふだつき)の井伊氏の内情を、こともあろうに小野和泉邸に二泊して探索して直満・直義の処置に苦慮していた義元に讒言(ざんげん)いたしました。その結果、西暦1544年12月23日二人は断罪となり、直満の子当時10歳の井伊亀之丞(直親)を殺せと下知が下されます。
両人の墓は、「いどん(井殿)が椎」と伝われ、今も引佐町井伊谷の保健センターの東のこんもりとした木の下にあります。この墓は、戦国井伊氏苦渋の始まりの象徴です。
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               引佐町井伊谷保健センターにある「井殿(いどん)が椎」



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