西暦642年、聖徳太子の御子息であります山背大兄王が飛鳥 斑鳩の里から都を「行基の都」に移した当時、政治を行っていた場所が、いだいら観音の里の長興寺です。
その長興寺からの山を越えた所、背山(うしろやま)の浄居院(じょうこいん)「満月堂(まんげつどう)」と書かれた薬師堂に薬師如来様は、居られます。
或いは、山背大兄王の住居の山を隔てて返った反対側の場所にある故、山背(やましろ)を逆さにした名前の背山(うしろやま)と言う地名ではないかと思われるのです。
浄居院(じょうこいん)は、奥山 方向寺の頭塔として文安元年(1444年)に開設された古寺で、昔は方向寺の門前にあったが、明治14年の方向寺の大火により焼失したため、背山薬師堂境内地内に移転し今日に至っています。しかし元々、この場所にあったもので創期は、古代にまで遡ります。つまり浄居院(じょうこいん)の方が、奥山 方広寺より格式のある寺であると言う事に成ります。浄居院(じょうこいん)の意味は、六根(眼、鼻、耳、口、意、身)を清浄した者、つまり成仏した者と言う意味になります。大和国王でありました山背大兄王の父であります聖徳太子は、仏の身として、法隆寺の本尊であります薬師如来を祀り、前世から続く因縁の身として、国王として政治を行っていました。聖徳太子の御子息の山背大兄王もまた同じように、前世から続く因縁の身として、いだいら観音の里の長興寺で政治を行い、仏の身として背山(うしろやま)浄居院(じょうこいん)として薬師如来を祀っておられた。と考えております。その為か、長興寺 聖観音菩薩像と淨居院 薬師如来像の作風は、酷似していて、作者は、同一人物であると思われるのです。
長興寺 聖観音菩薩像
浄居院(じょうこいん)の「満月堂(まんげつどう)」と書かれた薬師堂に入ると、梁を支える両側には、法隆寺の金堂や五重の塔に観られる飛鳥時代の建築様式である雲肘木(くもひじき)が使われているのが、目に入ります。雲肘木(くもひじき)とは、この場所が、法雲地(ほううんじ)であることを現しております。大慈悲の者が、苦の衆生(しゅうじょう)に仏道への教えを説き、安穏な心、極苦から逃れた自由自在な心、法利を得る為の心へと導く処を現しております。
更に法雲地(ほううんじ)である「満月堂(まんげつどう)」の天井は、天井画になっており浄土の世界を現す無数の華やかな花の絵が、描かれております。残念ながら、原形が残っているのは、数枚しかありません。
更に前に進むと薬師如来様が居られる居間に、辿り着きます。すると薬師如来を中にして
両側にそれぞれ化身の6菩薩、薬師如来を信仰する者を守護するとされる12体の武神である12夜叉大将(やしゃたいしょう)が祀られております。
12夜叉大将(やしゃたいしょう)とは、元々は暗黒の世界に存在する夜叉(やしゃ)つまり悪魔であった者が、仏と仏法の真理に降伏し、善男子となって仏と信者を守護する菩薩になった者の化身した姿を現します。
薬師堂に書かれております「満月堂(まんげつどう)」とは、満月の強い光明により、暗黒の世界を照らし続けている様子を示しております。
そして中央の薬師如来が、持っておられる薬瓶は、六根(眼、鼻、耳、口、意、身)を清浄する薬が入っております。全ての病は、六根(眼、鼻、耳、口、意、身)清浄することでストレスが無くなり、癒えるとされております。まずは、諸色(栄誉、権力、金銭等)に貪欲になっている眼を清浄することが重要であるとされます。その為か昔は、眼の病を治すため、いだいら観音の里から、長興寺の前を通る道を登り、
桜通りを経て
大沢の郷を過ぎて山を越え、
繋がって大勢のお参り人が浄居院(じょうこいん)へ訪れた。と言います。