いだいら観音の里の「伊平 小屋城の戦い」

現在、「三方ヶ原の戦い」を検証する人の多くが、その内容に疑問を抱き、伊平 「小屋城」
に来られる人が増えております。また資料も求められます。
元亀2年(1571)10月22日武田信玄率いる軍と徳川家康率いる軍が、ここ伊平「小屋城」で戦いました。しかし、今までは、この戦いの記録は、殆(ほとんど)無く、秘密のベールに覆われておりました。武田軍は、背後を襲われるかもしれない徳川軍を浜松城に残して西へ、移動することはありえません。
 何故、三方原の戦いではなく、伊平「小屋城」の戦いなのか?
徳川、武田の兵士達の供養をしていると言われております遠州大念仏、
いだいら観音の里の「伊平 小屋城の戦い」


その遠州大念仏供養が行われている場所を地図上にプロットして観ますと武田軍の侵攻経路が観えてきます。
いだいら観音の里の「伊平 小屋城の戦い」


 天竜二俣城を落とした武田軍は、天竜川の浅瀬、今の浜北大橋付近から浜北地区に侵攻して来ました。川を渡り終えた敵を撃つのは兵法の定石であり、浜北大橋周辺地域で戦いの為の戦死者を祭る遠州大念仏が非常に多いのはその為だと思われます。旧浜松地区、三方原地区には、遠州大念仏供養はありません。
 更に、遠州大念仏供養地から武田軍本体の侵攻経路を探っていきますと、浜北地区から都田地区へ、都田地区から滝沢地区、東久留米木へ そして川名、伊平地区の仏坂を含めた「小屋城」に成ります。実際に古文書の「伊平村古記」には、「元亀2年10月22日武田勢の将山県三郎兵衛は、川名村庄司右衛門を案内人として、伊平 小屋城を夜討した」とあります。
即ち敵である武田軍は、伊平「小屋城」の東側から侵攻してきたことになります。
徳川軍は、伊平「小屋城」を本陣として、浜北大橋付近に及び陣地を構えたことが予想されます。



タグ :いだいら

同じカテゴリー(観音の里だより)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

写真一覧をみる

削除
いだいら観音の里の「伊平 小屋城の戦い」
    コメント(0)