観音の里だより「今よみがえる空(くう)の里 その1」

「この先どうなってしまうのか?」と多くの人が不安に思う時代になってまいりました。
しかし「論語」の中で孔子は、「心配しなくていいよ!どんなに時代が変化してもその姿は、
必ず温故知新(古きを学び新しきを知る)だよ!」と言われます。「今よみがえる空(くう)の里」は、遠い昔、我々の先祖が何を考え、何を行って来たのかの歴史を「いだいら観音の里」にあります史跡に学ぼうとするものです。

日本で十一面観音像が、最初に創られたのは、奈良斑鳩の岡本にあります「法起寺(ほうきじ)」に置かれております西暦606年に聖徳太子が創られたとされる木造十一面観音菩薩立像です。
観音の里だより「今よみがえる空(くう)の里 その1」


観音の里だより「今よみがえる空(くう)の里 その1」
天皇大王という称号を持つ「和国」の王であります聖徳太子は、政治をおこなうにあたり「政治理念」を十一面観音菩薩立像に込めました。(何故か現在の歴史書では、摂政に変わっております。)
もちろん聖徳太子は、実名ではありません。空海が弘法大師、醍醐寺の開祖 聖宝(しょうぼう)が理源大師と言われている様に諡号(しごう)です。諡号(しごう)とは、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことです。
 十一面観音菩薩の左手にある蓮の花が入っている壺は、仏教による清水(きよみず)を表します。そして頭の上には、共に生きるという意味を表す円を、描くように十人の顔です。
聖徳太子の「政治理念」とは、仏教により清い心を持って和を成す国、誰もかれもが幸せになる国造りという意味になります。

(資本主義では、人の欲を刺激して、需要を拡大し富を生みます。日本はつい最近まで
一億総中流社会でした。富は皆に行き渡り、それはそれで成果があったと評価しますが、
幸せであったか!と考えますとそうでは無かったように思われます。欲には限界が無かったからです。
 聖徳太子の誰もかれもが幸せになる国造りの方法とは、欲を抑えて空(くう)の世界へ、そして幸せになるという考え方です。)
西暦622年、聖徳太子が御逝去される際、御子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対し、岡本の地にある宮を、改めて寺(古代では朝廷という意味)とすることを遺命したと伝えられております。しかし山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、無念にもその地では、成すことができませした。中臣氏(後の藤原氏または、天皇家)に追われて都を東国の屯倉(みやけ)の地(遠江国 井平を中心とする地域)に移さねばならなかったからです。
観音の里だより「今よみがえる空(くう)の里 その1」


                      細江町油田の屯倉(みやけ)水神社

そして現 長香寺を寺(古代では朝廷という意味)としました。

 山背大兄王の御子息で、聖徳太子の生まれ変わりとして現在の四方浄で生まれたとされる「仲田山般若院」もまた、西暦706年引佐町伊平仏坂の地に聖徳太子と同じ政治理念が込められた十一面観音菩薩立像を「いだいら観音の里」に造られました。
観音の里だより「今よみがえる空(くう)の里 その1」


ですから、われわれ子孫がこれから目指す世界もまた、十一面観音像に込められた世界であると思われるのです。



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