観音の里だより「里に伝わる和讃を詠んだ法源禅師」

いだいら観音の里には、滝清水 清水寺、
観音の里だより「里に伝わる和讃を詠んだ法源禅師」


松山 観音堂、
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仏坂 竹馬寺、
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そして再香山 長興寺と
観音の里だより「里に伝わる和讃を詠んだ法源禅師」



法源禅師が詠まれた和讃が存在しています。
では法源禅師とはどんな人だったのでしょうか?


『遠州七ふしぎの話 第2集』では

「昔、現在の半田町の舟岡山に大智寺という寺があり、そこには法源和尚という大変偉い和尚が住んでいた。
法源和尚ははじめ、現在の北区細江町中川の初山宝林寺という寺で独湛禅師(どくたんぜんし)という支那から来た優れた和尚の下で勉強をしていた。その後、日本全国を歩き、寺を建てたり、つぶれかけた寺を建てなおしたりと、仏教を広めることに力を尽くした。
その噂を聞いた現在の半田町近くの近藤徳用という殿様は、法源和尚にぜひ自分の領内に住んでもらいたいと思った。そして1713(正徳3)年に舟岡山に大智寺を建て、和尚になってもらった。
決まった檀家を持たないお寺の暮らしは決して楽ではなく、毎日近くの家々を廻ってお金やお米をもらい、細々と暮らしていた。しかし、法源和尚はとくに困った様子はなく、これで良いとすがすがしい気持ちでいた。
ある寒い冬の朝に、弟子たちが寒さに震えていたが、法源和尚は平気な顔をしているので、尋ねると、今に村のおかみさんが綿入れの着物を持ってくると言った。するとその通りに、寒いでしょうからこれを着てくださいと、綿の入った暖かい着物を持ってきてくれた。
またある朝、和尚が急に本堂の前に立ち、西の方へ向かって水を投げた。何事かと思い弟子が和尚に尋ねると、京都の宗円寺に火事が出たということだった。5日ほどして、京都の宗円寺から先日火事があったが大火にならずに済んだのも和尚のおかげだという礼状が届いた。
東海道を通る大名たちがかごから片足を出して、はるか遠くにいる法源和尚に目礼して通ると、今どこの国の大名が通ると言ったほど、何でも分かる不思議な力を持っていた。」
とあります。
私が、注目することは、「日本全国を歩き、寺を建てたり、つぶれかけた寺を建てなおしたりと、仏教を広めることに力を尽くした。」というところです。彼もまた、世代を超えて存在する利他行の集団「行基(ぎょうき)」の江戸時代の道號(どうごう)であると思われるのです。そして彼が建立した寺には、必ず「行基(ぎょうき)」作という名前が付けられるのです。



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