観音の里だより「行基の都、誕生の背景とその消滅」

縄文時代と言われております紀元前の遥か昔、どの国におきましても自然崇拝の時代です。この国にも、海洋を中心に暮らしておりました海人(あま)一族が崇拝していた海の神、朝鮮半島の新羅(しらぎ)の国からの民で、出雲の国を中心に、広く山々で暮らしておりました大国主(おおくにぬし)が崇拝しておりました神、山の神が存在しておりました。海人(あま)一族の頭首は、亀の甲羅を火で焼きその割れ目の状態で占いをしておりました。また、山の神の頭首は、卑弥呼に見られる様に、霊感が強い巫女などがその座に就いておりました。海の民と山の民は、長い年月を経て婚姻関係を結ぶなど、お互い仲良くすみ分けて暮らす様になります。
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ところが、弥生時代、朝鮮半島より新羅(しらぎ)の他に百済(くだら)、高句麗(こうくり)等がこの国に押し寄せてまいります。当時、文明は、中国大陸に始まり、朝鮮半島を経てこの国に伝わります。まだ銅鐸(どうたく)に観られる青銅器の武器しか持ち合わせていないこの国の民は、鉄の武器を持ち、騎馬を使って戦いをする集団に敗れ去ります。そしてこの国を統一したのが百済(くだら)でした。百済(くだら)は、この国を仏教により「和(わ)」を持って、成す国、「和(わ)」国と称しました。「和(わ)」国が長い年月を経て大きく広がった国それが「大和(やまと)」国です。百済(くだら)は、それまでこの国に存在して居りました民に仏教を信仰するよう強いるようになります。海人(あま)一族は、それに従い仏教を信仰するように努めます。その甲斐あってか頭首は、中臣(なかおみ)という位を授けられます。その人物こそ中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。後の藤原鎌足(ふじわらかまたり)です。西暦710年「伊勢神宮」を設立し、「古事記」や「日本書紀」を編集した藤原不比等(ふじわらふひとは、彼の二男になります。長男は、「中大兄王子(なかのおおえのおうじ)」です。「大兄王子(おおえのおうじ)」とは、長男を表します。
「中大兄王子」とは、「中臣(なかおみ)」家の長男と言う意味です。後の天智天皇です。
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結果的には、元々この国の海の民であった海人(あま)一族が、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策を行い、仏教を排斥した後、天皇を中心とした神の国を創ることになります。排仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策を行ったこの時代、聖徳太子が創ったとされる法隆寺、四天王寺が火により焼かれ、そして火責めにより「行基の都」も廃墟になりました。しかし、その後の聖武天皇の時代、天然痘の大流行等の天災、阿修羅(あしゅら)の如き戦(いくさ)等の人災は、人心の荒廃を極め、民の心を治めることができず、奈良に大仏を造る等、再び仏教を見直し、国造りに取り入れる事に成ります。
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その時の懺悔(ざんげ)の様子が、藤原家の菩提寺であります奈良 興福寺に納められております藤原不比等の娘であり、聖武天皇の妃であります光明皇后が創った、戦いを好むとされる阿修羅(あしゅら)像に観ることができます。この阿修羅像の三面は、懺悔の深きことを表しております。仏教では、此の世は罪、福の主は無く深く懺悔して悔い改めれば、仏道への道は開かれる。とされているからです。
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時代をさかのぼり、藤原鎌足の腹違いの子であります天武(てんむ)天皇は若かりし頃、大海人王子(おおあまのおおじ)と呼ばれておりました。それは海人(あま)一族の王子であることを現しております。
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ちなみに神の国以前の和国(わこく)の国王は、代々、天皇(てんのう)の称号ではなく大王(だいおう)の称号を使っておりました。ですが、最初に天皇と名乗った人は、聖徳太子です。自らを大王天皇(だいおうてんのう)と號(なのって)おりました。「法華経(ほけきょう)」に拠りますと大王とは、仏教国の王を表します。大王天皇とは、仏教国の王であり、その中でも諸天の中心佛を表します。本来、天皇とは、神(かみ)では無く、佛(ほとけ)なのです。
一方、山の民であります物部(もののべ)氏は、百済(くだら)の要求を受けることができず、百済(くだら)との戦に成り敗れます。それが蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏の戦いの真相です。仏教徒と山の神の氏子との戦いです。
百済(くだら)の民は、元々は中国の呉(ご)国 蘇州(そしゅう)に仏教で国を治めていた王国の民で、越(えつ)国との戦いに敗れ、国を追われ朝鮮半島に移り突然、百済(くだら)という国を造ります。百済(くだら)とは、○百○花○済○救という意味で仏教により誰もかれもが救われるという理想の国を目指しました。一時期は朝鮮半島のほとんどを治めるような強大な百済(くだら)でありましたが、やがて高句麗(こうくり)が朝鮮半島の北から勢力を増してきます。再び新天地をこの国に求め、仏教により「和(わ)」を理想とした「和国(わこく)」を築きます。「日本書紀」では「西暦642年大和国王の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、蘇我入鹿(そがのいるか)により攻められ一族郎党皆自害をした」と在ります。そして「その暴挙のため西暦645年大化の改新(たいかのかいしん)により蘇我入鹿(そがのいるか)を誅殺した」と在ります。
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しかし「日本書紀」の内容は真実ではありません。山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、海人(あま)一族との戦いを避ける為、奈良斑鳩(いかるが)の里を離れ、新天地を求め東国の屯倉(みやけ)である引佐の地を中心に利他(りた)の国「行基(ぎょうき)の都」を創ります。そして都を創った後、西暦658年には集団で諸国の家ごとに仏舎利を造り、仏像を刻み経典を置かしむ為、全国を歩きました。
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何故、引佐町伊平であるかでいうことですが大和(やまと)は、琵琶湖(びわこ)のある近江国、古くは、「近淡海(ちかつあはうみ)」と呼び、浜名湖(はまなこ)のある遠江国、古くは、「遠淡海(とほつあはうみ)」呼び、双方の地域を国造りにおいて最も重要な地域と考えておりました。浜名湖(はまなこ)の近くにありまして東西南北の道が交わる交通の要所の地を選んだと考えられます。伊平を中心に「和(わ)」を描くように「行基(ぎょうき)」が造ったとされる寺院が数多く存在していることからも分かります。

では、どのような経路で斑鳩(いかるが)の里からいだいら観音の里に移って来たかと考えますと、西暦643年、「安珍清姫」の舞台にもなっております和歌山県日高川の河口にあります日高港から一族郎党皆船に乗り、浜名湖、西に隣接する港、新居(あらい)港に辿り着いた。と考えます。
何故なら、浜松市浜名郡新居(あらい)には古代よりの神社、「角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)」が存在して居るからです。
観音の里だより「行基の都、誕生の背景とその消滅」


「角避(つのさく)」とは、戦いを避ける。と言う意味です。「比古神社(ひこじんじゃ)」とは牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りしております。牛頭天王(ごずてんのう)とは、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を守る佛です。つまり、仏教の聖地を守る佛なのです。
「角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)」とは、戦いを避けるべく創った聖地を守る佛をお祀りしている処なのです。
やがて海人一族(天皇家)から熊襲(くまそ)、東国征伐の命を受けた日本武尊(やまとたけるのみこと)が船に乗って海から浜名湖に上陸し、浜松市浜名郡雄踏(ゆうとう)町の地を拠点にして火責めにより、この地を征服します。
                      日本武尊(やまとたけるのみこと)
観音の里だより「行基の都、誕生の背景とその消滅」


熊襲(くまそ)とは「和国(わこく)」或いは「百済(くだら)」を比喩する言葉です。
これにより西暦710年前後に「その当時の行基の都」は、姿を消すことになったと考えます。



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