観音の里だより「利他行の集団 行基~遠州渋川 火踊り詞集からの古代史~ 」

行基と言う集団は「道號(どうごう)」導く者と「隋號(ずいごう)」従う者から成ります。開墾をする隋號(ずいごう)の人は、隋墾坊(ずいこんぼう)と呼ばれておりました。伊平より北域にある浜松市北区引佐町四方淨霧山、浜松市北区引佐町田沢や浜松市北区引佐町川名などでは、今も隋墾坊(ずいこんぼう)の墓が点在しております。西暦695年には、全ての隋墾坊(ずいこんぼう)の墓を霧山隋墾坊大権現としてお祀りするようになりました。  ※ 「的場・四方淨縁起書」による

                霧山隋墾坊大権現を祀る屋代
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観音の里だより「利他行の集団 行基~遠州渋川 火踊り詞集からの古代史~ 」


「和」国王であります山背大兄王の家来には、仏閣を建立する建築技術者、仏像の製作技術者や水田による稲作の普及の農業技術者、鉄器の製造技術者、開墾や川に掛ける橋の建造を行う土木技術者等、当時の最先端の技術を持つ者が多くいたと考えられます。その主従が仏門に入り、行基の道號と隋號という名前に換え、仏教を全国に布教すると共に活躍しました。その結果、全国に数多くの行基の伝説が残されました。
しかも「行基」と言う組織は世代を超えて存在し続けているのです。
行基一代目の道號は、山背大兄王(戒名 古瀧山龍王院)です。
戒名の古瀧山龍王院(こだきさんりゅうおういん)の意味は、古くは、流れ落ちるで瀧(たき)のある山を座所とする山人(やまと)で、仏教国を守護する王と言う意味になります。
      遠州渋川 古東土(ふるとうど)地区にある古瀧(こだき)がある山を祀る神社
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      遠州渋川 古東土(ふるとうど)地区にある祀られている山の古瀧(こだき)
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           遠州渋川 宮脇地区 古瀧ある山の近くある古瀧山龍王院の住居跡
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                  遠州渋川 大代(おおじろ)
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                遠州渋川 大代の寺平にある仏塔
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                  龍王院の墓である院主の墓
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               山背大兄王(戒名 古瀧山龍王院)
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彼は、民の為、海人一族との戦いを避け、西暦642年に都を東国の屯倉(みやけ)である、この地に移しました。 ※ 「日本書紀」による
そして、いだいら観音の里の長興寺を御所として16年間政治を行い、円を描くように周辺に寺を設け、都を創りました。さらに父親であります聖徳太子が研究しておりました「法華経」の中の「般若教(実行智慧)」の教えを実行に移すため、行基と言う利他行の仏教集団を創りました。そして自ら遠州渋川に移り、戒名の古瀧山龍王院と号し、遠州渋川の古東土にある古瀧山を御座として西暦658年、三月二十七日には、この地から諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像を刻み経典を置しみ全国を歩きました。※ 「的場・四方淨縁起書」による

その目指すところは、仏教の「法華経」の大乗法が説く処の誰もかれもが幸せに暮らすことのできる浄土を創ることでした。
行基二代目の道號は西暦668年「いだいら観音の里」の直ぐ北に位置しております浜松市北区引佐町四方浄(旧 仲田の里)で生まれた仲田山般若院(戒名)です。 ※ 「的場・清浄淨縁起書」による 
                
             行基菩薩(戒名 仲田山般若院)座像
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西暦686年龍王院が、お亡くなり、彼は、18歳にて大和国の王となります。
また行基の道號として村人に仏教を布教するために、仏像を四方(川名、伊平、別所、的場)に安置し、四方浄土の霊地なりと字義を以て仲田の里を四方浄と改めました
 ※ 「的場・清浄淨縁起書」による

その後、西暦729年、61歳の時に中臣一族に攻められ、絶壁の山が聳え立つ難攻不落の山城、鳳来寺山に立て籠もって戦いますが、それ以上の戦いを避けて、降伏をします。しかし家臣たちの怒りは収まらず、家臣たちは、大蛇となって反撃致します。これが、「やまたのおろち(大和の大蛇)」の真相です。西暦737年には、家臣たちの反乱も平定されて大和国滅亡後 ※ 「遠州渋川 火踊り詞集」による 仲田山般若院は、行基菩薩として生きていくことが許され、遠州 渋川の地で茅葺の家にひっそりと暮らしておりました。驚くことに、代わってこの地を治めたのは、藤原不比等の長男の文武天皇こと橘諸兄(藤原武智麻呂)氏であると「遠州渋川 火踊り詞集」には、記されております。そして晩年の75歳の時西暦743年には、文武天皇の御子息の聖武天皇からの御布施(勧進)の依頼により、奈良に入り、奈良東大寺の大仏殿の建立を始めました。 ※ 「続日本紀」による。
                 奈良東大寺 大仏殿
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もちろん建立したのは、仲田山般若院を道號(どうごう)とする「行基」集団です。
行基三代目の道號は、真言宗の開祖、空海です。
                  弘法大師 空海
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仲田山般若院が亡くなられた後、空海若かりし頃、仲田山般若院の自宅であった菅原寺にて修行をしたことの記録が残っております。おそらく行基の隋號(ずいごう)の中で悟りを得た僧侶が、空海の智慧者としての才能を見抜き「道號(どうごう)」へ導く為の修行であったと思われます。そして「空海」と「行基」とを結びつける逸話は、現在も数多く存在して居ります。その内の一つを以下に挙げます。
「平安時代初期の弘仁年間(西暦810~823年)に空海が、八坂八浜を訪れた際に、行基手植えの松の下で、野宿し、行基の夢を見た。そこに塩鯖(しおさば)を馬に背負わした馬子が、通りがかった。空海が、塩鯖(しおさば)を所望したところ、馬子は、口汚くののしり断った。坂にさしかかったところで、馬が急に苦しみ動かなくなった。慌てた馬子は、先ほどの僧は、※巡錫(じゅんしゃく)中※僧が、各地をめぐり歩いて教えを広めることの空海に
違いないと思い、空海に鯖を差し出し、「馬を治して欲しい」と懇願した。空海が荷持水を馬に与えたところ、馬は、たちまち元気になった。」と言う逸話です。
この逸話の中で注目したことは、「行基手植えの松の下で、野宿し、行基の夢を見た。」という処です。松の枝は同じ高さから四方八方に伸びる輪生の植物で、全国に配めぐらせた「行基集団」を意味します。その下で「行基」と同じ様に行動をしている夢を見ます。
行基四代目の道號は、貞観16年(874年)、真言宗醍醐寺の創建をした空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝です。
                  真言宗醍醐寺
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そして行基五代目の道號は、臨済宗の開祖の栄西です。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍された僧です。
           臨済宗開祖 栄西
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更に行基六代目の道號、行基七代目の道號・・・・・。
この様に行基という集団、道號及び隋號は、世代を超えて利他行をするために存在し続けます。

確かに西暦706年仲田山般若院により伊平、仏坂の地に十一面観音菩薩像は、創られました。しかし、現存する行基作と伝承されている十一面観音菩薩像は、仏像の創られた年代を調べていただきますと、平安時代の後期から鎌倉時代の初期であるという結果に成ります。これで地元の歴史家は、「やはり行基が、この里に居られた」と言う、内容は、伝説だけで実際は、「行基」の存在は、無かった。と言う結論に成りました。行基とは、奈良時代に活躍された僧の人であると考えられていたからです。
 そこで、思い出されますのは、聖徳太子が造られたとされます「法隆寺」と「四天王寺」
のことです。日本書紀には、西暦670年に「法隆寺」は、屋余すとこなく焼失したとあります。
                             法隆寺
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また西暦690年には、「四天王寺」も焼失したとあります。
                             四天王寺
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伊平、仏坂の仲田山般若院が創られた十一面観音菩薩像は、西暦729年、政敵であります伊勢の中臣氏の侵略により、大和国であります行基の都が消滅した際に焼失したと考えます。
では、今、現存する「法隆寺」「四天王寺」と「伊平、仏坂の行基作とされる十一面観音菩薩像」は、誰が再構築したのか?という疑問が湧いてまいります。聖徳太子の子孫が再構築したとしか考えられないのです。
では、聖徳太子の子孫とは、誰なのか?
これらを再構築したのは、世代を超えて存続し続ける利他行の集団 「行基」であると考えます。現存する「伊平、仏坂の行基作とされる十一面観音菩薩像」の構築された調査年代が、正しいのなら、それを構築したのは、行基五代目の道號である栄西の際の「行基」集団によるものになります。また遠州渋川に受け継がれている「火踊り」が創られたのもこの時代であるとされております。



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