いだいら観音の里が、行基の都であったことは、1788年(江戸時代中期の終わりごろ)、初山 宝林寺の当時の住職、法源禅師による和讃により語られているのです。
滝清水 清水寺
「
うつしてはここに都の清水の 寺はたやせぬ滝清水かな」
という和讃です。
(
昔、ここに都が移され、滝清水の地に聖地が置かれていた。この土地を絶やしては、ならない)と言う意味になります。
642年、中臣氏との戦いを避け、飛鳥の斑鳩の里からいだいら観音の里を中心に大和国の都を移しました。遷都した当時、山背大兄王(やましろのおおえのおう)17、18歳の頃であったと「渋川 大踊り 詞集」に記されております。「大踊り(おおおどり)」とは、天と地ほど大きく変わった事を意味しております。16年間いだいら観音の里の長興寺で政治を行った後、658年3月27日、行基(ぎょうき)という仏教による利他行の集団を創り、その道號(どうごう)として、隋號(ずいごう)達と共に全国に仏教と水田稲作を普及する事業を始め、俗名を捨て、戒名の古瀧山龍王院に改め、伊平より北域にある遠州渋川の宮脇の地に住居を移します。
遠州渋川の宮脇 古瀧山 龍王院(山背大兄王の戒名)の住居 跡
686年古瀧山龍王院(山背大兄王)がお亡くなりになるまで、遠州渋川の地は、「行基の都」の中心として栄えました。その後、龍王院の御子息の仲田山般若院は、18歳で大和国王に成ります。政治は太子に任せ、本人は「行基」の道號(どうごう)として四方(引佐町川名、引佐町伊平、引佐町別所、引佐町的場)に仏像を安置し、仲田の里を四方浄(しほうじょう)と命名して行基の都の中心を現在の浜松市北区引佐町四方淨に移しました。四方淨(しほうじょう)の意味は、四方浄土(しほうじょうど)と言う意味で、嘘、偽りの無い、汚れのない清い世界と言う意味になります。
私達日本人は、法源禅師の和讃に語られているように、大切な日本人の心の故郷である「行基の都」を絶対に忘れてはならないのです。